今、イスラム国のことが世界の大きな話題になっている。
テロリスト集団から発展したイスラム国は、イラクやシリアなどにその勢力を広げ、国際的には国家として承認されていないものの、今年のはじめには独立を宣言している。
しかも、外国人ジャーナリストを斬首し、その映像をネット上で公開するなど、残虐な行為は国際的な批判を浴びている。
アメリカは、イスラム国が領有したと主張している地域に対して空爆を行っているが、地上軍を派遣しておらず、その効果は疑問視されている。
イスラム国のなかには、日本を含め海外のジャーナリストは容易に入ることができず、実態は必ずしも明らかにはなっていない。
産油地帯を占有し、さらには湾岸諸国からの経済的な援助によって、豊富な資金源をもっているとも伝えられている。
しかし、イスラム国に入国しようとした北大生を支援したとして家宅捜索を受けた中田考氏は、イスラム国の招きで現地を訪れており、イスラム国はかなり貧しいとも語っている。
イスラム国の出現によって、改めてイスラムという宗教について関心が集まっているが、現代の世界の動向を考える上で、その存在感が日増しに強まっていることは間違いない。
たとえば、近年では「ハラール・ビジネス」ということが経済界の注目を集めている。イスラム教には、豚肉などを食べてはいけないとする食物規定があり、酒も禁じられている。
では、イスラム教徒は、豚肉を食べず、酒を飲まなければ、それでいいかと言えば、必ずしもそうではない。
現代では、豚に由来する成分がさまざまな形で各種の食品に用いられている。酒についても、飲用するだけではなく、さまざまな国の料理に用いられている。日本料理で言えば、ハラールの観点からすれば、みりんもまた使うことが許されない。
ハラールの規定は、イスラム教の聖典である『コーラン』に遡るが、それがうるさく言われるようになったのは近年になってからのことである。そこには、イスラム教の復興の動きがある。ハラールを強調することによって、イスラム教の国の企業は有利にビジネスを展開しようしている。
それは、「イスラム金融」にも共通して言えることで、利子を禁じるというハードルを設けることで、イスラム圏以外の企業の活動に制約を与えようとしている。
ここで重要なことは、今イスラム教の特徴とされていることのなかに、近年になって生まれた、あるいは強調されるようになった事柄がかなり多くあるということである。
フランスでは、イスラム教徒の女性が大学などの公的な場所で、「ヒジャブ」と呼ばれるスカーフを被ることが、政教分離(フランスではこれをライシテと呼ぶ)の原則に違反するとして禁じられたが、ヒジャブが一般化したのも実は最近のことである。
ごく最近では、インチョンでのアジア大会において、バスケットボール女子のカタールの選手団が、ヒジャブを被っての出場を拒否されるという出来事が起こっている。
ヒジャブを被ることは、信仰をあえて公にする行為であり、そこにはイスラム教の女性の自己主張が示されている。信教の自由を認めることは近代社会の大原則であり、イスラム教徒以外の人間は簡単にはヒジャブを否定できない。
イスラム国のような存在が生まれるのも、こうしたイスラム復興の動きと無縁ではない。ただ、国家の名称にイスラムを掲げているものの、もともとその地域にはイスラム教が広がっており、新たにイスラム教に改宗させ、宗教によって国を統合しようとしているわけではない。
イスラム国の動きのなかで、世界的なイスラム復興と関連して一つ注目されるのが、指導者であるアブバクル・バグダーディという人物が、「カリフ」であると宣言した点である。
イスラム教を開いたのはムハンマド(マホメット)だが、その後継者となったのが初代のカリフとなったアブー・バクルである。それ以来、イスラム教の世界の中心にはこのカリフがいた。カリフ制は、中断された期間があったものの、1924年に、トルコ建国の父であるムスタファ・ケマル・アタテュルクが廃止するまで続いた。
そのように言うと、カリフはキリスト教カトリックの法王に似た存在のように思えるかもしれない。だが、法王が世俗を離れた聖職者であるのに対して、カリフはあくまで俗人である。そもそもイスラム教には、カトリックの神父にあたるような聖職者はいない。
このカリフは100年近く不在であるわけだが、最近、イスラム教の復興がはかられるなかで、一部にカリフ制の復活を望む人間たちがいる。とくにイスラム教原理主義と言われる人たちのなかに、それが多い。彼らは、カリフ制を復活させることで、イスラム教の世界を一つに統合し、欧米社会に対抗しようとしてきた。
イスラム国のアブバクル・バグダーディが、自らカリフであると宣言したのも、その流れのなかでのことである。ただ、現在の時点では、イスラム国以外のイスラム教の世界で、彼がカリフとして認められているわけではない。むしろ、拒絶反応の方が強い。それでも、反対する人々もカリフ制復活自体は望んでいる。
カリフの条件としては、男性であることや、イスラム教の根幹にあるイスラム法(シャリーアと呼ばれる)についての十分の知識をもっていること、ムハンマドの出身であるクライシュ族の子孫であることなどがあげられる。ただし、カリフの歴史のなかで、こうした条件は必ずしも守られてこなかった。もちろん、イスラム国のアブバクル・バグダーディはクライシュ族の出身ではない。
条件がはっきりしないということは、カリフを指名する制度が十分に確立されていないことを意味する。
ただ、逆に言えば、イスラム教の世界全体で認められれば、それでカリフになれるわけだ。アブバクル・バグダーディが本当のカリフとして認められるには、イスラム世界全体の承認を必要とする。
仮にアブバクル・バグダーディがカリフとして認めらるような事態が生まれたとすれば、その影響は計り知れない。新しいカリフのもと、イスラム世界は国家の壁を越えて一つに統合されるからである。
イスラム教には、「ウンマ」という考え方があり、それはイスラム教の共同体のことをさす。新たなカリフの誕生は、イスラム教の世界が一つのウンマとして統合されることを意味する。そうなれば、イスラム教は世界のなかで、これまで以上の存在感を示すことになるだろう。
欧米の若者たち、とくにイスラム圏からの移民の子弟が、イスラム国に参加する動きを見せているのも、イスラム国において、そうしたことが実現される可能性を感じ、そこに希望を見出しているからである。
欧米の社会では、イスラム教は少数派で、多数派であるキリスト教に圧迫されている。しかも、移民であることで社会的に差別されている。そうした圧迫や差別から一挙に解放されるための試みが、イスラム国への参加なのである。
しかも、イスラム教徒がほとんどいない日本の若者がイスラム国に参加しようとしたことは、その試みが、イスラム教徒以外にも魅力的なものに映っていることを意味する。
かつての日本では、赤軍派のように北朝鮮の方向性に共感し、北朝鮮にわたった若者たちもいた。赤軍派は、パレスチナ解放人民戦線とも連携し、「テルアビブ空港乱射事件」のようなテロさえ起こしている。
グローバル化の著しい進展の背景には、資本主義の対抗軸だった共産主義、社会主義が力を失ったという事態がある。
今や、グローバル化に対抗できるのは、イスラム教という軸しかないのかもしれない。イスラム国にもつながるイスラム教原理主義過激派は、マルクス主義の革命論の影響も受けている。
イスラム国の出現は、あるいは、世界が新たな局面を迎えていることを象徴しているのかもしれない。
島田 裕巳
宗教学者、作家、東京女子大学非常勤講師、NPO法人「葬送の自由をすすめる会」会長。元日本女子大学教授。
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