「明るい焼け跡」からの再出発

池田 信夫

きのうのアゴラ読書塾では本書を読んだが、昨今の増税先送りをみていると、財政が崩壊して「焼け跡」になるのも、そう遠い将来ではないだろう。そのときのために、かつての敗戦がどういうものだったか、知っておくことは役に立つ。

本書は外国人歴史家の見た、明るい敗戦の風景だ。その特徴は、日本人の多様性を膨大な一次資料にもとづいて生き生きと描いている点にある。本書には「集団主義」で保守的なステレオタイプの日本人はほとんど登場しない。欠乏していた物資の流通は闇市を通じて急速に回復し、旧秩序を嘲笑して性のタブーに挑戦する「カストリ雑誌」が大流行する。


本書で詳細に紹介される当時の大衆文化の資料は、日本人が焼け跡のもたらした解放感をむしろ楽しんでいたように見える。もちろん当時の日本は連合軍に占領されていたが、日本人はGHQ(連合軍総司令部)を恐れるよりむしろ「抱きしめた」。その理由は、彼らが古い支配者を「公職追放」し、自由を与えてくれたからだ。

本書の下巻では、日本の政治体制が形成される過程をたどる。当時の米国政府では昭和天皇の責任追及を求める声が多かったが、共産党の力が増すにつれて、マッカーサーは天皇を共産主義への防波堤として利用するようになる。この意味で占領は、第二次大戦の戦後処理であると同時に、冷戦の始まりでもあった。

印象的なのは、憲法制定をめぐる日米のやりとりだ。日本政府側の「明治の人々」は、憲法の素案に示された欧米型民主主義は「日本の伝統にそぐわない」とか「国民から反発を受けるだろう」と強く反対したが、それを押し切って作られた憲法は、意外なことに国民の圧倒的な支持を得る。

本書の記述は、日本人にとっては周知の事実も多いが、著者のメッセージは明確だ。問題を先送りする口実として「日本人は大きな変化をきらう」といった国民性があげられることが多いが、そうした特徴は決して伝統的に不変のものではない。また「欧米型の資本主義は日本の文化にそぐわない」という類いの主張も疑わしい。

本書は、1951年にマッカーサーが解任されるところで終わる。このころ日本は戦前の所得水準を回復し、56年には『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言するに至った。この間わずか11年である。問題を先送りしてずるずると「敗戦処理」をするより、すべてを清算して一から出直すほうが社会的コストは小さいのだ。

財政が破綻しても、本物の敗戦のように人が死ぬわけではない。そのとき必要なのは、古い政治家を「公職追放」し、古い企業を「財閥解体」して、いったん「焼け跡」になってみることではないか。資産や職を失う人も出るだろうが、自由な焼け跡は意外に明るいかもしれない。