「ビロード革命」の3人の主役たち --- 長谷川 良

アゴラ

チェコスロバキアで民主改革(通称ビロード革命)が勃発して11月17日で25周年を迎えた。チェコでは1968年の自由化路線(通称プラハの春)が旧ソ連軍の軍事介入で後退した後、ソ連のブレジネフ書記長の後押しを受けて「正常化路線」を標榜して権力を掌握したグスタフ・フサーク政権下で民主化運動は停滞したが、反体制派知識人、元外交官、ローマ・カトリック教会聖職者、学生たちが1989年11月17日、結集し、共産政権に民主化を要求して立ち上がっていった。これが“ビロード革命”だ。

民主化運動を推進した当時の多くの主役たちは亡くなったり、政治の舞台から消えていった。東欧記者だった当方にとって、チェコのブロード革命は歴史との出会いの日々だった。


▲自宅でインタビューに応じるハベル氏(1988年8月、プラハで撮影)


チェコの場合、同国反体制派グループ「憲章77」の指導者だったバツラフ・ハベル氏(後日、大統領に選出)との出会いが直ぐに思い出されるが、このコラム欄で過去、数回書いたので、ここでは他の人物との出会いを紹介したい。
 
チェコスロバキアの民主化では、チェコ共和国とスロバキア共和国で完全に異なったプロセスが展開した。チェコの場合、ハベル氏を中心とした民主化への政治運動であった一方、スロバキアの場合、キリスト教徒たちを中心とした「宗教の自由」を求めた運動が中核だった。そして両共和国の民主化の精神的支柱がローマ・カトリック教会のフランチェスク・トマーシェック枢機卿だった。


▲チェコ民主化運動の精神的指導者トマーシェック枢機卿(1988年8月、プラハの枢機卿公邸で)

当方は1988年8月、プラハ城近くにある公邸で枢機卿と初めて会見した時、枢機卿は「信教の自由を求める声は、人間の本性に起因するものだ」と述べ、民主化、宗教の自由への支持を表明した。89年に入って再会した時、枢機卿の体力は急速に衰え、もはやはっきりと返答できないほど弱っていた。


▲元外相のハイエク氏(1988年8月、ハイエク氏の自宅で撮影)

ドプチェク第1書記と共に“プラハの春”を推進したイリ・ハイエク外相(当時)は88年8月、当方の“プラハの春”20周年の企画取材に応じてくれた。ハイエク氏はプラハ郊外の自宅で当方を迎えてくれた。家の中に入ると、壁には様々な絵画が掛けられていたのがとても印象的だった。

プラハの春以降、反体制派という烙印を押され、プラハの政界から追放されていたハイエク氏は会見の中で、「ソ連のチェコ侵略こそ社会主義の発展を妨害した反革命である」と主張し、ソ連共産党政権にプラハの春の名誉回復を要求した。

プラハでゼネストが行われた時、民主化を求める市民と警備隊が正面衝突した。当方も市民の中に入って取材していたが、警備隊が市民に向かって前進してきた時、市民と共に逃げ、近くの飲み屋に飛び込んだことを覚えている。

ハベル氏が旧市街のフス像前広場でデモを呼びかけた時、広場には市民のほか多くの私服警官が警戒していた。ハベル氏が広場に到着すると市民は同氏の周りを取り囲んだ。私服警官もハベル氏を取り囲んだ。当方は写真を撮ろうとしたが、私服警官が妨害。集会後、宿泊先の民宿に戻る当方を私服警察がしつこく尾行してきた。スロバキアの取材でも同じような経験をした。当方が宗教の自由集会の取材中、私服警官に拘束され、ブラチスラバの中央警察署で7時間ほど訊問を受けた。
 
ビロード革命から25年が経過した。チェコスロバキアは結局、民主化後、2つの国に分かれた。チェコは現在、欧州連合(EU)の加盟国だが、国民はブリュッセル主導の政策に強い不満を感じている。社会は世俗化が急速に進み、無神論者の数はEU加盟国で最も多い国となった。

ハベル氏、ハイエク氏、そしてトマーシェック枢機卿は既に亡くなった。ビロード革命を推進した3人の主役たちが現在のチェコの状況を見れば、どのような思いが湧いてくるだろうか。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年11月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。