戦前日本の無責任さは現代の「左」も持っている。

倉本 圭造

(この記事は、先日の衆院選直後に、この結果に「不満」な人にも希望が持てる道筋を示そうという意図で書かれたものです。が、あまりに長くてアゴラ編集部の投稿ガイドラインに反してしまい注意を受けたので、分割して再度投稿させていただいております。毎回単体でも読めるように工夫していきます。)

前回までの記事で、今回の選挙に対する

A・「左翼ざまぁ!」的な凱歌を上げている人
B・「とりあえずほっとした」という人
C・「絶望した!右傾化する日本に絶望した!」

という三パターンの反応をするグループの、

Bの人の願う「構造改革」
Cの人が願う「”戦後左翼主義の夢”みたいなもの」

の延長に、

Aの人が願う「日本すげえええええ!イヤッホー!!」

が来るようにすることが、A・B・Cのどの立場の人の願いも今後「現実的に実現」するためには必要なんだという話をしました。

ここで、「構造改革の夢」と「戦後左翼主義の夢」って全然違うもののように見えるけれども、「根っこの気持ち」的には、

戦後体制が抱えている根幹的な部分で「ナアナアにする」システムがこの国には組み込まれていることに怒っていて、その根源を暴きたいと思っていて、それに「侮辱」されていると感じている

と捉えるとそれを解消することは現代日本人の「マジョリティ」レベルでの願いと言って良いようなものになる。

そして、前回の記事で述べたような、私が最近仕事で触れたグローバル展開している日本企業の現地子会社の苦境を考えると、

この絵↑的な問題というのはむしろ「現在進行形」で今も昔も日本社会に常にある問題であって、そしてそれを本当に解決するには、自分と逆側の人たちに全部責任を負わせる議論ではなくて、「どちら側の責任でもある」問題として総体的に見る視点が必要だという話を、今回はします。


2・「護持された古い国体」を壊すときには、「あたらしい国体」が必要になる。

「永続敗戦論」(あるいはこの本にシンパシーを感じる人の議論)を読んでいて、どうしても私としては引っかかるのは、「無責任の体系」by丸山真男に該当するのは、戦前の日本をリードした責任者の”直系の子孫”である「自民党的な政治家と官僚組織と”財界人”」だけに限定して話を進めているように見えるところなんですよね。

でも、今や自民党政治家だって官僚だって”財界人”だって戦前と同じ人間がやっているわけではないですよね。

もちろん丸山真男氏がこの話をオリジナルにしたのは戦争直後ですから、その時は本当に同一人物だったんでしょうが、しかしそれでも、この「無責任の体系”現象”」とも言うべきものは、別に「自民党と官僚組織と財界人」だけのビョーキというわけではないわけですよね。

”一億総懺悔”的なことを言うようですが、メディアだって学者だって”何も悪いことをしていない日々頑張って働いている私ら庶民さん”だってこの「無責任の体系」に一役も二役も買ってるわけじゃないですか。

そこのところで、この「日本人が克服するべき”無責任の体系現象”という課題」を、戦後何十年の間、右の人も左の人も「全部相手側の責任」にして来たところがあるんですよね。

確かに現状の官僚システムは色々と機能不全が起きていて、「どの程度・どういう形」かはともかくもっと現場の自律性が自然に発揮される形に持っていくことが重要なんだろう・・・ということは、私と同じ世代なら中央官僚本人だって口をそろえて言うことだと思います。

ただ、いくら縦割りの弊害があろうと、中央官庁にはそこに降り積もった歴史の重みで逃げられない責任を「その分野」に対して持っている人間たちとノウハウの集積があって、ただそれを壊すだけだと、

「一つの”無責任の体系”を壊したら、別のもっと巨大な”無責任の体系”が出現した」

ということになりかねません。いや、ただ壊すだけだと明らかにそうなると断言してもいい。ちっちっちっ、日本人の集合体が持っている、泣く子も黙る「全体最適を扱うことの苦手さ」をナメてもらっちゃあ困るぜ!という感じです。

要するに、「永続敗戦論」的立場からすると「あらゆる侮辱の源泉」であるかのような「現状の”国体”」に我慢ならない思いを抱いているのは、おそらく結構な「マジョリティ」といっていいほどなんですよね。しかし、

「その国体」を壊した先に、どういう未来があるのか?

が大事なんですよ。明治維新以降ずっと続いてきている体制自体をぶっ壊したいなら、「着地」まで考えないといけない。「着地」さえ綺麗に決められる目算が立つなら、「古い国体」ぐらい明日にでも壊していいよ・・・というぐらいなのが日本人の歴史的な「体質」と言って良いだろうと思います。

で、実際には、「古い国体の延長」が博物館的に生きている領域のほうが、部分的ではあれ「まともな責任体系」が生きているのが現代日本なんですよね。

トヨタみたいなある意味古い体質の企業がやっぱり日本を代表する成果を出しているし、大前研一氏が現役コンサルタントだった時代は、「大前氏のような戦略性」と、「古い”国体の延長”」が共鳴しあって「全体最適と部分最適が調和して運営」されていたと見るべきでしょう(ほんのちょっと前までの韓国経済のように)。

もちろん、新進のカリスマベンチャー経営者が「個人的膂力」でコントロールしている範囲には「責任体系」が生きている部分はあります。でもこれはその「特殊な個人のカリスマ性」によるものでしかなく、「あたらしい時代の国体」に値するものになるかどうか・・・は、難しいと言わざるを得ません。

要するに、「古い国体」を壊したいなら、「あたらしい国体」を用意する必要がある・・・ってことなんですよね。「あたらしい国体」がだんだん練れてくれば、「昨日までの自分たちってなんだったんだ」的な節操なさで転換する性質があるのも、日本人の歴史が示していると言っていいでしょう。

この絵↑のように、「あたらしい納得できる国体」の”影”ぐらい見えてくれば、もう「古い国体」なんてポイー!的な感じになるのが歴史が証明する日本人の本来的感性なわけですからね。

「国体」とか言うと大仰ですけど、要するに「こういう風にやっていこうという共通了解」とか「空気」をどう作るのか・・・ということなんですよ。

その「共通了解をつくろうとする空気」がないと、果てしなく細分化されたタコツボの中で「俺は悪くない。俺は責任を果たしている。あいつらが悪い」とお互いを攻撃しあうだけに終わってしまう性質が日本人には特に強くあるからです。

セクショナリズムが横行して、あらゆる人間が内向きにただ自分の身の回り数十人の利害しか見ないでその延長をやろうとして、その無数のタコツボの寄せ集まりみたいになった全体的集団の運営はどこにも方向性がなく、結果としてありとあらゆる「現場」にシワ寄せがいって、「火炎瓶で戦車に立ち向かったノモンハン」とか、「食料がないから畑を作って自給自足していた南方諸島戦線」は日常的に大量生産されてしまうわけです。

そういう社会運営の失敗が「大本の原因」としてあって、”それによって抑圧されたあらゆる現場の不満”が一方向的に暴走していく先に、先の大戦のような不幸は”あくまでその結果として生まれてくる”んですよね。

そういう「巨大なエネルギーが行き場を失って暴走しはじめ」てから”個人的にできる範囲で止めようとした人間(今の時代絶対的に善人扱いされる)”と”もう仕方なく乗ってしまった人間(今の時代絶対的に悪人扱いされる)”との間に倫理的な差があるのか?っていうと私はほとんど無いと思っています。

その前の時点でそういう問題がそもそも起きないような「社会の運営テクニック」を身につけようとせずに放置していた時点で結局五十歩百歩だからです。

そこで、

「横断的な最適性を共有して、現場レベルの必死の働きが意味ある成果につながるように持っていくことが大事です。そしたら暴走するエネルギーを暴走させずに現実的な成果に繋げられるようになるよね!」

と書くと、これはもう安倍政権が嫌いとか好きとか関係ない、ある程度インテリな日本人共通の「悲願」みたいなものだと言えるでしょう。

もちろん、こういう言い方は、「経済分野」を偏重しすぎていて、私が大事にするような社会的正義や公正性の議論にはなじまない・・・という「(この記事冒頭の分類で言う)C派」のあなたもいるでしょう。

しかし、「そういう問題」こそ、極論同士の応酬に陥らずにお互いの良心を共鳴させあうような解決に向かわせるためには、「経済問題以上」に、こういう「横断的な最適性の共有の機運」が必要なんですよね。

そして、「極論同士の応酬」状態から、もっと豊かなメッシュ感で微調整が常に可能な状態に持っていかない限り決して解決しません。その辺りのことは、日韓関係や朝日新聞の問題について書いた前回の記事を参照いただければと思います。

では、どうしたらそういう「あたらしい国体」を作っていけるのか?それはまた次回に述べましょう。

ほぼ毎日不定期に更新していく予定ですが、連載形式だと半月ぐらいかかるので、一気読みされたい方は、私のブログ↓でどうぞ。
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倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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