「どういう社会に住みたいか」という「表現の自由」問題

矢澤 豊

今月7日に起きたパリでの痛ましいテロ事件を受けて、事件直後は現代社会における「表現の自由」の重要性の主張が世論を席巻しました。


現地フランス、そしてヨーロッパにおいては、「表現の自由を守れ」という世論の高揚がひと段落し、議論はその焦点を微妙にずらし始めているように見受けられます。それは「表現の自由」という、基本的人権・価値観に関する限定的な議論から、かれらの社会において巨大なマイノリティーを形成するに至った異文化・異宗教の移民と、その第二・第三世代との共存を余儀なくされている、いまそこにある現実の社会問題に関する議論への発展といえるでしょう。

異民族との共存・共栄という耳触りのよいスローガンと、人口減対策・経済成長戦略の思惑の下に、かつては積極的な移民政策を推し進めてきたヨーロッパの国々も、今回の事件によって市民社会の健全性を維持していくためには、単なる共存・共栄のコンセプトから一歩先に進んだ自国市民の「同化(integration)」という問題に直面せざるを得ないことを、自覚させられていると思います。「同化」といっても移民たちの民族性を一方的に否定することではなく、より根本的な「価値観の共有」、たとえば「表現の自由」はどこまで許容されるべきなのか、といった問題に対する社会の一定のコンセンサスの構築の可否といったレベルの話です。

オランダ、ロッテルダムの市長のアーメッド・アブタレブ氏は、モロッコ生まれの移民でイスラム教徒ですが、事件後のテレビ・インタビューで「もし住む国の『自由』が気にいらないというイスラム教徒がいるのであれば、どうぞ荷物をまとめて国を去ってほしい。『私たちの社会』から出て行ってほしい。」と発言して物議を醸しています。

今回の事件に接して、私個人は「ミスター・ビーン」で有名なイギリスのコメディー俳優、ローワン・アトキンソン氏の10年前のインタビューを思い出しました。当時イギリスでは、いわゆるヘイト・スピーチを取り締まる法案を審議中でしたが、アトキンソン氏は宗教を批判・風刺の対象としてオフリミットとする法案に反対して、以下のように発言していたのです。

「その人の人種を批判することは明らかに不条理でバカげているが、宗教を批判することは権利だ。これは自由だ。思想を批判すること、それがたとえ敬虔な信仰であろうとも、これを批判することができることは、社会の基本的な自由の一つだ。どのような思想も批判の対象となり得るが、宗教だけはこの例外とするという法律は、おかしな法律というしかない。

この法案が示唆するのは、 「気分を害されない権利」というべきものを認めさせようという社会の風潮だ。しかし私の考えでは「気分を害する権利」は「気分を害されない権利」よりよっぽど重要だ。「風刺する権利」は「風刺されない権利」より社会的に重要だ。なぜなら前者は「開かれた社会」を意味し、後者は圧制につながるからだ。」

結局のところ、今回の事件により国際世論の焦点があたった 「表現の自由」問題は、「どのような社会に住みたいか」という問いかけにつながっていると私は思います。テロの舞台となったフランスの風刺新聞のスキャンダラスな内容を指摘して「『表現の自由』の許容範囲を越える」と主張する人は、ではいかにしてその許容範囲の線引きをするかという議論と、そうした議論を通じたそれぞれ社会におけるコンセンサスの構築は、原則として「批判する権利」「風刺する権利」をみとめる「開かれた社会」においてのみ可能であることを再確認する必要があるでしょう。

我が国に目を転じると、ムラ社会によって育まれた均一性を志向する国民性のためか、日本人には暗黙の了解(最近は「空気を読む」というらしいですが)を意識して、「表現の自由」の許容範囲を自らに課す傾向があります。メディアにおける自主規制などその最たる証左でしょう。こうした日本人の遠慮と気遣いの精神は、日本が海外の諸国に比して「優しい社会」を形成するに至ったことに大いに貢献しているといえます。しかし日本人はそうした「優しい社会」を当然のこととして、「開かれた社会」を犠牲にした「表現の自由」に対する制約を甘受することに対して、より鋭敏な危機感を持たなければならないと思います。紅白歌合戦でのサザンオールスターズのパフォーマンスを批判することは自由です。しかしそうした批判は、そのような意見をもつ人たちがそれぞれの価値観の主張として行うべきことでしょう。 それを「不敬罪」などという錦の御旗もどきの理論で推し進め、あたかも自分たちの価値観がすでに社会のコンセンサスを得ているかのようにうそぶき、議論の俎上にのせるべき自分たちの価値観を「国体」などという詳細不明のコンセプトにおきかえて、これをあたかも神聖不可侵のもののようにいう一部の人々の不誠実と卑怯なやり口を目にすると、私は危うさを感じるのです。「玉座の陰に隠れ、敵を討つ」とはこういう行為を指して言うのです。

またいまさらな指摘ですが、日本人は国際社会という「開かれた社会」では、「批判されない権利」など存在しないことを肝に銘じるべきでしょう。日本国内でしか通用しない「遠慮と気遣い」を外国人に期待しても、それは場違いな甘えです。主張すべきを主張しなければ、だれもあなたの心の内を推し量ってなどくれないのですから、「表現の自由」「批判する自由」を最大限に活用させていただきましょう。

以下余談。
最近、今回の「表現の自由」や、マララ・ユスフザイさんのノーベル平和賞受賞に代表される「女性の権利」、ロシアにおけるジャーナリスト迫害など、国際情勢のニュースで欧米先進国の基本的人権・価値観に軸足をおいた報道が多くなったように思えます。うがちすぎな考えかもしれませんが、9・11同時多発テロ以来、テロ勢力の脅威から自由世界の安全を守ること、つまりは安全保障をお題目にアフガニスタン・イラクに侵攻してから14年。イラクは目も当てられない内戦状態におちいり、アフガニスタンも心もとない。オサマ・ビン・ラディン殺害によりテロの仇はとったものの、潜伏先は同盟国のはずだったパキスタン。「アラブの春」の後、基本的人権という価値観を共有する民主主義が芽生えることを期待したものの、現実はイスラム原理主義ばかりが拡散。どうも何のために大きな犠牲を払って長い戦争をしているのかわけがわからなくなっているところで、こうした「西側の価値観」を打ち出すことにより国際世論を誘導し、あらたな戦争遂行目的のよりどころとした上で、イラク北部に陣取るイスラム国をはじめとしたあらたな敵に対する戦争に備えているかのようで、頭の片隅でなんともキナ臭いものを感じている年初です。