本当に「全ては許される」か --- 長谷川 良

アゴラ

イスラム過激派テロリストに10人のジャーナリストを殺害されたパリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」最新号(1月14日発行)には、テロに屈しない意思表示としてイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画が再び描かれ、「全ては許される」(Tout est pardonne) という見出しが付けられている。


▲仏風刺週刊紙最新号を1面トップに報じるオーストリア日刊紙プレッセ14日付(2015年1月14日撮影)


一方、韓国中央日報日本語電子版13日には、「嘘も表現の自由だ」といったタイトルのコラム「時視各角」が掲載されていた。中央日報のコラムの一部を紹介する。

「昨年、セウォル号事故当時に出たホン・ガへという女性の嘘もそんなケースだった。彼女は自身が民間潜水士だとして海洋警察がまともに救助活動をしていないと、あるテレビメディアのインタビューに嘘を言った。これに対し海洋警察の名誉を傷つけたとの容疑で拘束され裁判を受けた。そして9日の第1審で無罪判決が下された。『表現の自由』を認めたからだ』という。ただし裁判所は『この判決が、ホン氏の行動を正当化したり免罪符を与えたりするものではない』と明らかにしたと付け加えている。そして『嘘は道徳的な審判を受ける問題であって、法で断罪することにはならないという話だ』と述べている」

「全ては許される」と「嘘も表現の自由だ」という2本の記事の見出しを偶然、読んで考えさせられた。前者は仏週刊紙テロ事件に関連し、後者は虚言に対する韓国裁判所の判断を記述しているが、テーマはいずれも「言論の自由」についてだ。

「全てが許される」と「嘘も言論の自由だ」の主張の根底には、中央日報記者が指摘するように、「言論の自由」に倫理とか法的規制を加えれば、言論メディアの「言論の自由」が委縮する懸念が出てくるからだ。だから、「全てが許されなければならない」というわけだ。

ちなみに、中央日報記者は、韓国大統領府の内部文章の流出問題にも言及し、「表現の自由に対する社会的意識と要求が大きくなる一方、大統領府の「言論の自由」の後進性を指摘している。

虚言の「言論の自由」について、韓国の裁判所は「道徳的な審判を受ける問題だ」と説明している。では、「どのような道徳的審判を前提としているのか」、「法的規制なき道徳的審判は現実的か」、「言論の自由の行使で生じた被害者への配慮はどうか」等の疑問が出てくる。

「言論の自由」と「道徳的機能」が正常に機能している場合は問題はないが、現代社会のように、「言論の自由」への社会的意識が拡大する一方、「道徳的機能」が後退する場合、「言論の自由」は文字通り独り歩きすることになる。

欧州キリスト教社会では神の権威は久しく失墜し、神への信仰は形骸化してきた。「道徳的審判」が脆弱化してきた今日、道徳的審判を恐れない「言論の自由」が猛威を振るう結果となる。

「全てが許される」という発想は、人間の傲慢さを表現している。人間には「許されること」と「許されないこと」があると認識することが“考える葦”である人間の尊厳の出発点ではないか。 


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年1月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。