膨張する裁量行政の危険 - 『統治新論』

池田 信夫
大竹 弘二  國分 功一郎
太田出版
★★☆☆☆



安倍首相が「ヒトラーだ」などという議論を相手にしてもしょうがないが、現状がワイマール体制に似ていることは事実だ。史上もっとも理想主義的な憲法のもとで政治が迷走し、史上最悪の独裁者が合法的に登場したパラドックスをどう理解するかは、歴史的な興味にはとどまらない。

立憲主義で憲法を守ることは、朝日新聞が考えるほど容易ではない。すべての法は解釈されて初めて効力をもつので、つねに裁量の余地があるからだ。デリダも指摘したように、法の中にはそれ自体を脱構築する可能性がある。これは英米法の文脈でも、ドゥオーキンなどが論じた点だ。

現実の法の運用の大部分は――司法にせよ行政にせよ――解釈であり、それが裁判官や官僚の主観的な裁量を含むことは避けられない。この点を指摘したのがベンヤミンだったという大竹氏の指摘はおもしろい。彼は『暴力批判論』で、警察は既存の法を運用するだけではなく、法に規定されていない事態については裁量によって実質的に法をつくってしまうと主張した。

これはワイマール期の混乱に対する左翼からの批判だが、これに右から答えたのがシュミットの『政治神学』だった(と大竹氏は解釈する)。ここでは政治的混乱を収拾するために例外的な事態について決定する主権が重視され、それを体現する強いリーダーが求められる。それに答えたのがヒトラーだった。

しかしシュミットの反論は、実はベンヤミンへの答にはなっていない。法の条文を変えなくても、官僚はその解釈を変えて実質的に法を改正することができるからだ。フーコーのいう「生政治」が膨張した20世紀には、このような行政国家の裁量が膨張し、立憲主義は形骸化したため、行政に対する主権者(国民)のチェックはほとんど不可能になった。

この認識は正しいが、日本の現状にコメントする後半になると、話が腰砕けになる。彼らは集団的自衛権に反対するのだが、実際には安倍政権の政策は集団的自衛権を行使しなくても可能な微調整にすぎないことを国分氏は認める。武力行使に該当する「新事態」を詳細な(実戦には役立たない)立法で規定する安倍政権は、むしろ過剰な実定法主義だ。

彼らは生政治による国家の過剰介入を批判するが、ヒトラーの国家社会主義を批判したハイエクに「新自由主義」というレッテルを貼る。彼が「国家を完全に市場原理のもとに置くネオリベ」だという批判は失笑ものだ。『法と立法と自由』を読めというしかない。

ただ行政の裁量が際限なく拡大する日本の現状が危険だという認識は正しい。法の支配を破壊するのは、独裁者だけではなく裁量行政である。それがもっとも露骨な形で進行しているのが、法律どころか政令も省令もなしにすべての原発を止めている原子力行政なのだ。