集団的自衛権事始(1861年のロシア軍艦対馬占領事件)

1861年の6月1日、イギリスの駐日特命全権公使ラザフォード・オールコックは、香港出張の帰途、長崎から江戸に向けての日本国内旅行に出発します。これは前年(1860年7月)の、彼が外国人として記録に残る初めての富士山登山を果たしたのと同様、日英修好通商条約の下に約束された駐日外交使節の長に許された日本国内での旅行の自由を最大限に活用するパフォーマンスでもあり、また情報収集をも目的としていました。

香港への出張からもどってきたオールコックの心中は、決して穏やかなものではなかったはずです。といいますのも、香港でオールコックは裁判に負けているのです。

前年、1860年の11月、横浜に居留していたイギリス人商人のマイケル・モースは神奈川宿付近で狩猟としゃれこんだのですが、その帰り道、江戸城から十里四方の銃の使用はご法度ということで役人に咎められたところ、どうやら泥酔していたらしいモースはその役人を撃って重傷を負わせてしまいました。おりから攘夷浪人のテロ行為の取締りを巡って幕府を強硬に糾弾していたオールコックにしてみれば、自国イギリス人のこの蛮行を看過できません。横浜の領事裁判で、モースは国外退去と1,000ドルの罰金刑の判決を受けましたが、上告を受理したオールコックは、公使の権限で、量刑を3ヶ月の懲役と1,000ドルを被害者への賠償に当てる判決を下しました。ところが日本を脱出し収監を逃れたモースは、イギリスの植民地香港で、オールコックが一審より量刑を重くしたのは越権行為だとし、オールコック個人を相手に訴訟を起こします。香港在のイギリス人商人たちは、自分たちの仲間であるモースを支持し、陪審員はオールコックに非ありとの評決を下し、オールコックはモースに対して2,000ドルの賠償支払を命じられてしまいます。

誇り高いキャリア外交官(前職は軍医)だったオールコックにしてみれば、自国民のトラブルメイカーにしてやられて、憤懣やるかたないところだったでしょうが、それ以上に懸案だったのは、オールコックの香港出張と前後した1861年3月、対馬にロシア太平洋艦隊のコルベット艦、ポサドニック号(ピリリョフ中尉指揮)が来航し、対馬にロシア海軍艦船の停泊地と補給基地の建設を許可するよう、幕府を牽制しつつ、対馬藩主宗氏を相手に直接ねじ込み、対馬の浅茅湾近辺に上陸するだけでなく、勝手に宿舎などの施設を建造し始めたのです。

対馬に艦隊基地を置くことは、元はといえばイギリスのアイディアでした。第二次阿片戦争(アロー戦争:1856~1860年)は主に清の首都、北京を中心とする華北地方で戦われましたが、北京の外港である天津と、それが面する渤海湾、黄海の制海権を制する目的でこの近辺に補給基地となりうる港を確保することは戦略上の重要課題でした。対馬は天津から離れてはいるものの、日本海の入り口に位置し、南下を目するロシアへの抑えとしても戦略的な重要性を持っています。イギリス海軍は1859年に測量船アクテオン号を対馬に送り、沿岸の測量を進めるとともに、幕府に対して対馬に租借地を得ることを打診しますが、当然のように断られています。

そんなこんなで、1861年5月末、不都合なタイミングで香港くんだりまで出かけさせられた上に、イヤな思い出と請求書を土産にさせられて、オールコックはイギリス海軍の砲艦リングダヴ号で日本に帰ってきます。香港から長崎に到着したオールコックは、ただちに現地の駐長崎イギリス領事モリソンと、オランダ総領事デ・ウィットから対馬事件の最新情報のブリーフィングを受けます。対馬ではロシア水兵が対馬藩の警備兵を銃殺する事件が発生しており、郷士などを捕虜として軍艦に拉致することもしていました(内1名は抑留中に自殺)。ロシア水兵が、牛やその他の食料や物品を村人たちから掠奪することも行われ、対馬藩は一触即発の様相を呈していたのです。

この時点でオールコックは幕府が現地の対ロシア交渉役に外国奉行小栗忠順を当てたことを知ったでしょう。かつてより金銀通貨の交換比率の問題で、列強諸国を相手にくいさがっていた小栗ですので、オールコックも小栗の手腕を知っていたでしょうが、それよりオールコックが心配だったのは、小栗が幕府政権内にてどちらかといえば親露派であるかもしれないという疑念だったでしょう。

阿片戦争(1840~1842年)以来、極東アジアで好戦的な強硬姿勢を貫いていたイギリスや、日本の外交慣例を無視して江戸湾に直接進入し、砲艦外交を演じたアメリカに比して、ロシアのプチャーチンはペリーに遅れること1ヶ月の1853年8月22日に、日本の外交慣例を尊重して長崎に入港。ロシア使節はアメリカのそれと比べれば、終始穏便にふるまい、1854年の安政東海地震の折に津波でプチャーチンの乗船ディアナ号が大破遭難した際には、伊豆の戸田村の村民の親切にあうなどして、日露両国の関係は友好的でした。その証左として、ロシアの駐箱館総領事ゴシケーヴィッチは1860年に江戸出府の帰り、駐日外交使節の長ではないにもかかわらず、幕府より東北地方を通って任地箱館に帰任する国内旅行を許されています。

ポサドニック号の対馬での振る舞いは、こうしたいままでの日露の親密な関係に冷水をかける行為でしたが、従前の日露の友好関係と、前年(1860年)咸臨丸で命からがら太平洋を横断を果たしたばかりで、自力でポサドニック号を追い払う海軍力もなく、手も足も出ない幕府政権の現実を鑑みると、幕府がロシアに対して弱腰に出て、結果として対馬においてロシアに譲歩してしまうのではないかという危機感はオールコックにおいてはリアルな懸念だったでしょう。ペルシア、アフガニスタン、インド北方辺境地帯、そしてアロー戦争以降は華北・外満州におよぶ、全ユーラシア大陸規模で「グレート・ゲーム」といわれた対ロシアのつばぜり合いを演じていた大英帝国の極東代表として、オールコックは、日本においてロシアに先手をとられることは絶対に避けなければならなかったのです。

もっともオールコックが5月末の時点に長崎で得た最新情報は、小栗の現地でのピリリョフ中尉相手の交渉が行き詰まり、小栗は一旦江戸に復命に戻り、情勢は膠着しているとのことでしたので、オールコックとしてはひとまずは安心できたかもしれません。

そこでオールコックはあえてからの計画通り、1ヶ月余りの時間をかけて長崎から陸路を小倉へ、関門海峡を渡り、下関から瀬戸内海を海路神戸に向かい、攘夷浪人を刺激するからという幕府のたっての願いから京都を避けて大阪に滞在し、東海道を江戸に向かうという日本国内旅行を敢行しました。同行したのは前出のオランダ総領事デ・ウィットと、香港から来日したイラストレイテッド・ロンドン・ニュース専属の画家、チャールズ・ワーグマンでした。

オールコックの回想録「大君の都(The Capital of Tycoon)」には、佐賀の嬉野温泉で、男女混浴の湯船からあがってきて、全裸の姿を恥じらいもなくオールコック一向にさらした老婆の姿に妙に感動(?)したことや、大阪で見物した芝居小屋の様子などが詳しく描写されているとともに、河川の徒渉可能な地点の詳細や、大阪の蔵屋敷群の防火構造などにも言及していて、オールコックの情報収集能力の優秀さの片鱗がうかがえます。(芝居小屋で「もう帰ろうよ...」と駄々をこねるデ・ウィットをなだめつつ、日本語のセリフがわからないのに、一生懸命世話物の筋書きを推察しているオールコックは、やっぱりシェークスピアの国の人だなぁ...と思わせます。)

オールコック一行は7月4日に江戸に到着。駐日英国公使館として割り当てられていた高輪の東禅寺に旅装を解きます。翌5日の夜10時ごろ、その東禅寺に攘夷浪士14名が切り込む第一次東禅寺事件が発生。英国使節の警備にあたっていた外国奉行配下の旗本や諸藩の藩士が奮戦し、浪士たちを撃退し、オールコックは無事でしたが、オールコックに先駆けて長崎から海路リングダヴ号で江戸に到着していた長崎領事モリソンと、同じくリングダヴ号で香港から着任したばかりの書記官ローレンス・オリファントは刀傷をうけます。特にオリファントは突然の襲撃に、まだ荷物の中に入れたままであった拳銃を手に取ることができず、乗馬鞭で応戦し重傷を負うという豪傑ぶりを発揮しました。この事件の様子はオールコックに同行して東禅寺に滞在していた前出の画家ワーグマンの手により早速イラストレイテッド・ロンドン・ニュースに送られました。イギリス外交使節以外では、襲撃側の攘夷浪人中、東禅寺の現場で3名が落命、1人捕縛(のち処刑)、逃走した者の内4名が逃げ切れずに切腹しています。防御側の警備士は2名が襲撃で命を落としています。

ちなみにこの事件の場に居合わせていたのが、当時外国奉行の通詞見習いであった福地桜痴(源一郎)です。彼がのちに日本のジャーナリストの先駆けになったのも、なにか因縁を感じさせる話です。

しかし狭視的テロリストの蛮行とは別の次元で世界情勢は動いていきます。7月8日には、香港滞在中のオールコックからの要請を請けて対馬近辺海域を偵察してきた、イギリス海軍極東艦隊司令(Commander-in-Chief, East Inides and China Station)のホープ少将がリングダヴ号に加えてコルベット艦エンカウンター号を率いて江戸に入港します。7月9日と10日の二日間にわたり、オールコック、ホープ少将、そして負傷中のオリファントは、幕府老中安藤信正と若年寄酒井忠毗に通訳をつけただけの秘密会議を催し、ここで幕府はイギリスに対して対馬に滞留を続けるポサドニック号とそのロシア水兵たちを排除することを依頼し、イギリス側はこれを快諾します。

その結果、7月23日にホープ少将率いるエンカウンター号とリングダヴ号は対馬に回航。ポサドニック号とピリリョフ中尉に対し、日本幕府政府の依頼の下という形で、厳重抗議を申し付けます。ピリリョフ中尉の後ろ盾は、ロシア太平洋艦隊司令リハチョフ大佐と、ロシア海軍大臣であったコンスタンティン・ニコラエヴィッチ大公(皇帝アレクサンドル2世の実弟)でしたが、もともと「あわよくば」という目論みの下での対馬占領が、極東での英露衝突の引き金になりかねない状況に発展し、ロシア側は躊躇します。結果、前出の箱館総領事ゴシケーヴィッチに繋がる、ロシアの外交チャンネルを通じて、ピリリョフ中尉はじめとする現地ロシア海軍の説得がおこなわれ、9月19日にポサドニック号は対馬を後にすることになります。

後年、勝海舟は「氷川清話」などで、このイギリスを利用してロシアを対馬から追い払うという策を入れ知恵をしたのは自分だったと主張しています。勝は持ち前の江戸っ子気質で、話が面白ければ少々ホラでもいいや、というところがある人なので、これを真に受けていいものかどうか、とまどうところですが、もしこれが本当だとすれば、小栗がピリリョフ中尉との交渉で行き詰ってしまい、江戸に復命後、職場放棄してしまったのと入れ違いに外国奉行に任命された水野忠徳を通じてのことでしょう。以前、長崎奉行だった水野は、長崎の海軍伝習所の教監であった勝と懇意でしたし、勝を艦長とした咸臨丸の渡米計画の後押しするほど親密な間柄です。また勝は足掛け5年の長崎時代以来(1855~1859年)、在長崎のオランダ外交使節とも知己の間柄だったでしょう(デ・ウィットの着任が1859年12月なので、彼との直接の面識はなかったと思いますが)。

小栗を擁護する人たちは、対馬事件でイギリスの力を借りることは、すでに小栗の腹中の案であったといい、またロシア艦を排除した後も、イギリスがスキあらば対馬を我が物にしようとしていたことは彼らの外交文書でも明らかであるので、勝のそれは浅知恵に過ぎないと言います。しかし勝にとっては、イギリスがロシアと同様に日本にとって脅威であったことは自明の理であったでしょう。しかしロシアによる対馬占領という火事場にあっては、他に方策なしということで、あえて二大列強の間を綱渡りする方針を具申せざるを得なかったわけです。そして勝の根本には、このような事態を避けるためにも、国土を自衛するに足る海軍力を養うことが日本という国の急務であるという信念があったのです。

江戸に復命した際の小栗の腹案が、対馬を宗氏から没収し、これを幕府の直轄領とするということであったことに注目すると、小栗の頭の中には日本を外交上代表する幕府政権の権威を支えることをまず第一としていたことと、根本的な対馬のロシア人の排除に対してはこれといった策がなかったことが気になります。後日、幕末押し迫った時、小栗が北海道を担保としてフランス政府から借款し、これを軍事費として倒幕諸藩との決戦に当てるという腹案を弄んでいたことを考えると、ポサドニック号事件の折も、小栗には幕府の対面を保つためには、ロシアへの譲歩もやむなしと考えていた、つまりオールコックが一番懸念していた考えに傾いていたのではないかという疑念も一理以上あるように思えます。

「イギリスだって同じ穴のムジナだったのさ」というあたりまえに安易な批判は、冷徹な外交戦略の現実に、手前勝手な理想主義を持ち込む人々の見当違いな物言いでしょう。

この1861年のポサドニック号事件を通じて、イギリスは、極東の戦略重要地である対馬が、ロシアの影響域に入ることを防ぐという、ひとまずの戦略的目的を達成しました。そして幕府からは、伊能忠敬の手による大日本沿海輿地全図をプレゼントされたといいます。またオールコックは、幕府首脳との腹を割った秘密会談を通じ、井伊大老暗殺事件(桜田門外の変:1860年3月24日)以降、日本国内における幕府の権威が失墜していることを知ります。それまでは外交交渉に対しても反応が鈍い幕府に苛立ちを隠せなかったオールコックですが、日本国内の政情に通じることにより、強硬な交渉が結果を生まない元凶を悟り、条約港の開港要求などに関しても、この延期を認めるなど、柔軟な姿勢をとり始めるようになります。

このように日本に対する理解を深めていたオールコックが、自らが推し進めた幕府遣欧使節の世話焼きと、自身の再婚のためにイギリス本国に一時帰国し、代わりにニール中佐が代理公使だったタイミングに、生麦事件が起き(1862年9月14日)、薩英戦争(1863年8月)に発展したことは、間が悪かったと言えるかもしれません。(「軍隊での経験から当然ながら規律を重んじる人物で短気、そして多分あまり頭が良くなかった」とは、元駐日英国大使ヒュー・コータッツィ卿によるキビシいニール中佐評。)もっともこれをきっかけにイギリスは薩摩に肩入れし、明治維新を後押しすることになるのですから、歴史というものは皮肉です。

オールコックは、1864年に日本に戻りますが、下関戦争での行動を問責され、帰国命令に従い、日本を後にします。下関戦争での行動は妥当と評価され、1865年から1869年まで駐清公使を勤めたあと、イギリスに帰国。1897年にロンドンで亡くなっています。1862年、幕府遣欧使節も訪れたロンドン万博で陳列された日本の品々は、ヨーロッパにおけるジャポニズムの興隆の嚆矢となりましたが、これらのほとんどはオールコック個人のコレクションだったといいます。

東禅寺で負傷したローレンス・オリファントは、ホープ少将と共に対馬でピリリョフ中尉相手の交渉に加わったあと、香港を経由してイギリスに帰国し、1865年には故郷スコットランドの選挙区から国会議員に選出されます。当時、薩摩から秘密にイギリス留学していた森有礼などは、ロンドンでオリファントと交友し、短いながらも思い出深かった彼の日本滞在中の話に興じたといいます。晩年は宗教運動に傾倒し、ユダヤ人によるパレスティナ入植計画などにも参画しますが、1888年ロンドンで亡くなりました。日本人留学生たちにオリファントは、「『ヨーロッパ文明社会の腐敗と堕落、列強諸国による貧欲な搾取と纂奪の歴史』を語り、『近代文明の非を悟らせ、アジア古来の『信義』と『廉恥』の精神がいかに大切かを分からせたかった』」といいます。オリファントの外交官としてのスタートが、家族の友人であったエルギン伯爵を通じての縁故採用であり、このエルギン伯爵がイギリス軍総司令官としてアロー戦争で圓明園の破壊・略奪を認可したこと、そして先代のエルギン伯爵がギリシャのパルテノン神殿から勝手に持ち帰った彫刻群が「エルギン・マーブル」と呼ばれて未だにイギリスとギリシャ間の外交上の懸案になっていることに思いをはせると、感慨深いものがあります。

オマケの参考書籍