検証「龍馬伝説」 松浦玲著

新刊ではないが龍馬好きの人に是非とも薦めたい本がある。それは「検証・龍馬伝説」。この中から司馬の「竜馬がゆく」では触れていない点を特に挙げておく。「竜馬がゆく」でしか竜馬を知らない人には興ざめかもしれない。

慶応2年正月の薩長連合成立後、仕事のなかった龍馬のために木戸孝允は薩摩と共同で「馬関(下関の旧名)商社」の設立を企図する。薩長同盟のいわば経済版だ。だがこの会社は下関海峡を封鎖し通行料を取り立てることを主たる収益源としたものであったので毛利藩主が強く反対し立ち消えとなった。反対理由は「天下の人々を苦しめて一家(毛利家)の利益をはかるのは私の本意ではない」という至極まっとうなものであった。毛利藩主敬親は、臣下の言うことにいつも「そうせい」と言うために「そうせい侯」と揶揄されたが、実は非常な名君であったことがこれからも分る。

窮地に陥った龍馬を救うために木戸は土佐の溝渕広之丞に助言し龍馬と土佐藩の関係修復を図るため後藤象二郎との会見をセッティングさせる。これが土佐藩の外郭団体としての海援隊設立につながる。長崎にある土佐商会の支配人として海援隊の経理をみていたのが岩崎弥太郎。

以下は原文のまま
大政奉還について
大政奉還は後藤から土佐藩の政治方針について相談された時に「とっさにひらめいた案」で「驚天動地の奇手」だったとの司馬さんの解説が入る。これは小説の主人公龍馬への司馬さんのサービスである。
実際には大政奉還論は早く文久段階から大久保一翁や松平春嶽によって政局に影響力をもつ議論として持ち出されている。
以上第一章「司馬文学と歴史」の章中「大政奉還は奇手にあらず」の節から

筆者注:実は司馬は大政奉還が龍馬のオリジナルでないことを知っていた。彼の作品「最後の将軍」を読めばそのことがわかる。著者松浦玲が言うようにあれは読者へのサービス。

(薩長連合成立後木戸のこうした動きは)薩長の間では既に無用となっていた龍馬を、土佐との結びつきを回復する方向に手助けしたのが木戸の精一杯の好意だったと私には思われる。無論それで土佐が少しでも倒幕派よりに路線を変えれば薩長にとっても大きな利益である。 以上第七章「薩長同盟から大政奉還へ」の章中「龍馬と下関」の節から

勝海舟との関係
通説とは違い龍馬の晩年といっても三十そこそこだが、海舟との関係は疎遠であったと書いている。その傍証、龍馬が書いた「新官制議定書」に海舟の名がないこと。幕臣では真っ先に挙げられるべき人材であるにもかかわらず。
逆に西南戦争直後に西郷を記念するため編まれた海舟の「亡友帖」に龍馬の名がない。あるのは佐久間象山、島津斉彬、山内容堂、小松帯刀、横井小楠、広沢真臣、八田知紀、西郷隆盛の八人。
尚海舟が生涯を通じて最も高く評価した人物は横井小楠と西郷隆盛。ここにも龍馬は入っていない。氷川清話の有名な一節
おれは今まで天下に恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷隆盛だ。

総じて薩長連合以後の龍馬は中々居場所が見つからない。木戸や西郷も薩長連合の立役者を疎略に扱えないのでややもてあまし気味だった。木戸も西郷も龍馬の死に慟哭したわけではない。西郷に至っては龍馬暗殺の黒幕との説もあるくらい。
薩長は土佐藩の大政奉還の建白に正面きって反対したわけではないが冷やかだった。お手並み拝見、大政奉還路線の帰趨がどうあれ武力討幕方針は変えませんといったところか。

私は、薩長連合をなし遂げた直後龍馬が伏見寺田屋で幕吏のため命を落としたとしても歴史の大きな流れは変わらなかったと考えている。

司馬は「亀山社中の後身海援隊はいわば海に浮かぶ一つの藩のようなものだった。そのことが龍馬の言動に重みを加えた」と書いた。だが私に言わせれば、経営不振の会社経営に足を引っ張られて龍馬は時勢に遅れた。資金繰り、長崎でのイギリス人殺害事件に関し海援隊隊士に嫌疑がかかったこと(後に事実無根と判明)、いろは丸衝突事件等慶応三年維新の決定的時期に龍馬はつまらぬ事件に時間と精力を取られ過ぎた。そのために大政奉還も数ヶ月遅れた。薩長の討幕体制がととのう前であれば、慶喜は大政奉還によって主導権を発揮できたかもしれない。

青木亮

英語中国語翻訳者