大学の終わりは新しい知の始まり 『知の不確実性』

イマニュエル・ウォーラーステイン
藤原書店
★★★☆☆



今後20年を考えたとき確実になくなる産業は、紙の新聞と地上波テレビと総合大学だろう。もちろんジャーナリズムも学問も残るが、爆発的に増える情報の入れ物として、こうした20世紀(あるいは19世紀)の遺物はあまりにも非効率だ。

本書は「近代世界システム」の終焉ととともに、既存の個別科学(discipline)とそれに依存した大学(学部教育)も終わると論じる。その原因は、もともとごく一部のエリートのためにつくられた大学が大衆化によって「高校化」しただけでなく、個別科学そのものが危機に瀕していることにある。

近代の学問は、物理学の圧倒的な成功をまねて「科学」の装いを身につけようとした。社会科学の中で唯一それに成功したのは経済学だが、おかげで古典物理学の段階で止まってしまった。20世紀の物理学は、本質的な不確実性を取り入れて非平衡の状態を記述する分析用具を開発したが、経済学はいまだに平衡(均衡)しか扱えない。

他方、文系の学問の多くは科学の装いをあきらめ、一般人にアクセスできない1次資料を調査して小さな物語をつむぐ方向に進化した。こうした中で、著者の提唱した世界システム論のようなgrand theoryは当初は軽蔑されていたが、今や「グローバル・ヒストリー」は歴史学のコアになった。

著者は、ブローデルの「長期持続」の概念にもとづく「史的社会科学」を提唱する。これは自然科学の分野でプリゴジーヌなどが提唱する、「時間の矢」を取り入れた新しい科学に対応する。ここでは自然科学と社会科学の区別もなくなり、共通のモデルは物理的な平衡ではなく、生物的な進化だろう。

近代世界システムの終わりはグローバル化の終わりではなく、ヨーロッパ中心の世界秩序の終わりである。それは現在のEUにみられるように、商品や資本だけではなく人間や宗教もグローバル化する時代であり、世界規模の混乱をもたらすおそれもあるが、新たな知を生み出すかもしれない。

本書はこうした構想が漠然と書かれているだけで、ウォーラーステインやプリゴジーヌにできることがすべての大学教師にできるわけではない。しかしタレブのいうように「学問にとっての大学は、恋愛にとっての売春宿のようなもの」だとすれば、大学が消えることによって真に愛される学問が生まれる可能性もある。