憂国忌。森田必勝は何故、自決したのか? --- 岩田 温

本日、11月25日は「憂国忌」にあたる。
いうまでもなく、昭和45年11月25日、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で憲法改正に関する檄をとばし、自害した事件を偲んでのものである。

※三島の自決から本日で45年。殉じた森田の死の意味は?(出典;Wikipedia、アゴラ編集部)

三島由紀夫の檄文は、過激だが、やはり、文章が美しい。
一部を抜粋してみよう。

「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。」

「われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。」

作家として、数々の傑作を書いた三島由紀夫の自決は、大きな衝撃を与えたという。
「という」、と書かざるを得ないのは、三島事件の際、この世に生を享けていなかったため、伝聞でしか知らないからだ。

私は長い間、三島由紀夫の自決に関して、懐疑的な人間だった。多くの保守派が称賛しているが、果たして、称賛に値するような行為だったのか、と考えていた。

私が三島由紀夫に懐疑的だったのは、江藤淳の影響を受けていたことが決定的だった。江藤淳は、三島由紀夫の自決に関して非常に批判的だった。

小林秀雄との対談でも、江藤は次のように語っている。

小林 三島君の悲劇も日本にしかおきえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。

江藤 そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものなんじゃないですか。

小林 いや、それは違いでしょう。

江藤 じゃあれはなんですか。老年といってあたらなければ一種の病気でしょう。

小林 あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか。

江藤 日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。
…(略)…
江藤 僕の印象を申し上げますと、三島事件はむしろ非常に合理的、かつ人工的な感じが強くて、今にいたるまであまりリアリティが感じられません。吉田松陰とはだいぶちがうと思います。たいした歴史の事件だなどと思えないし、いわんや歴史を進展させているなどとはまったく思えませんね。

小林 いえ。ぜんぜんそうではない。
(小林秀雄『対談集 歴史について』文藝春秋 六二~六四頁)

肯定するにせよ、否定するにせよ、三島由紀夫自身については、多くの解釈が提出されてきた。私自身も、この問題を論じたことがある。

だが、忘れ去られているのは、三島は一人で死んだわけではないということだ。

早稲田大学の学生であった森田必勝も三島とともに自決している。

何故、三島は自決したのか、そうした問いかけが多い一方で、何故、森田は自決したのかは問われることが少なかった。

この森田問題を考える際の必読書が、復刊された。中村彰彦『三島事件 もう一人の主役』(WAC)だ。

本書は、森田の家族、友人、知人を丁寧に取材し、森田必勝という一人の人物を描いた傑作だ。恐らく、本書を越える森田論を書くことは出来ない。何故なら、本書が書かれた平成11年の段階では、話を聞くことの出来た関係者の多くも幽明境を異にしていることが予想されるからだ。

幼い頃に母を亡くした森田は、母親の存在に憧れる繊細さと明るさをもった少年だった。彼は当初から「右翼」だったわけではない。

社会党の委員長だった浅沼稲次郎が山口二矢に殺害された事件では、山口に憧れるのではなく、浅沼に同情する日記を遺している。また、天皇と皇太子をからかう内容の作品を書いた中央公論社の社長嶋中鵬二宅で、妻と家政婦を殺した小森一孝に関しても、日記で書いている。

「ぼくは左翼だから、小森がにくい」

少年森田必勝は政治家を志す。
二浪が決定となった日の日記には次のようにある。

「俺としては25歳で(大学を)卒業して、三年間新聞記者をやり、三年間誰かの秘書をやる。そして(四日市の)市長になり、二期務めて、今度は39歳で衆議院に立つ。そして三期務めて外務大臣になる。50歳だ。15年間、日本のために、そして、あとに続く日本民族のために、ゆるぎのない日本の地位をつくってやる」

「あとに続く日本民族のために」という言葉が、まるで特攻隊の遺書のように印象的だ。
早稲田大学に進学した森田青年は、民族派の学生組織、日本学生同盟に加わり、「楯の会」を結成する三島由紀夫に近づいていく。

三島由紀夫とともに自衛隊に体験入隊した森田は、骨折しながら、必死に訓練に参加した。

体験入隊から戻った森田達学生を三島は自宅に招き、酒宴を催した。

楽しかった酒宴から帰宅した森田は、三島に礼状をしたためる。

「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」
そして、本当に森田は命を捨てることになる。

今日は憂国忌。今日は、早稲田大学の学生であった森田必勝が自決した意味をゆっくりと考えてみたい。



編集部より:この記事は岩田温氏のブログ「岩田温の備忘録」2015年11月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は岩田温の備忘録をご覧ください。