日本は「猪木をバカと笑える社会」ではなくなった --- 天野 貴昭


今回は「社会はどこかで戦っていないとかえって平和を維持できないのだ」という話をさせて頂きます。

1980年代末から90年代にかけ、ベルリンの壁崩壊を始めとする東西冷戦への運動が活性化し、人々は戦争のない平和な社会な未来を待望しました。しかし冷戦後も世界から戦争の火種が消える事はなく、地域によってはむしろ紛争は激化して行きました。

元ロンドン大学教授のシャンタル・ムフはこの社会状況を冷静に分析し「調和的・同質的な民主主義は正反対の全体主義に転換される危険が高い」と指摘し「民主主義には調和よりむしろ衝突こそが重要である」と訴え、「闘技的民主主義」という理念を提唱しました。

ムフの主張を支持し、「わら人形劇団」という人形劇を企画する「AYKK」というチームがあります

彼らは毎回様々な人からのインタビューを基に「呪いたい存在」をモチーフにしたコミカルな藁人形劇を上演する事で、様々な社会問題の昇華・解決を図っています。

正義の為に怒るのではなく、怒る為に正義を求める社会


この呪い(怒り)を尊ぶ発想は「五行」という古代中国哲学にも存在します。

春秋戦国時代、現代で言う「うつ病」に悩む国王を「絶対に私を殺さないと約束するなら」という契約で治療に携わった医師が、わざと国王を激怒させることで病気を完治させ、その後怒り狂った国王により死刑になるという気の毒すぎる伝説があります。

五行論では、適度な怒りは健やかな生活を送る上で必要な因子と捉えられているのです。

またこれは私事ですが、かつて僕は「怒る」という潜在欲求を果たすべく「プレーヤーをわざと怒らせる為のカードゲーム」なるものを企画したことがあります。ところがそこで起こった事は「怒らせる様にするほどゲームが面白くなる」という謎の現象でした。

「世界は正義を守る為に怒るのではなく、怒りたい欲求を果たす為に正義を追い求め始めている」だから「怒る為に怒る人々」への説得は限りなく無駄で、いくら攻撃しても怒りは無尽蔵に現るでしょう。

それよりも「誰も死なずに『怒り』だけを昇華するシステムを構築する事が大切だ」…というのが僕の考えであります。

「怒り」を昇華する社会システムへの挑戦


肝心な事は怒りを昇華する為の「構築手段」なのですが、これは先の「わら人形劇団」の他にも幾つか執り行われています。

僕が知る中で最もインパクトのある試みは、現参議院議員のアントニオ猪木さんがなされている「紛争地域最前線でプロレス興業をする」です。

悲しみと復讐心で疲弊した地域で大男が殴り合う興業を実施することが現地の平和活動に有益か、僕にとってそれは想像に易いです。

この間、ノーベル平和賞受賞者マララ・ユフザイさんが猪木氏の要望に応じて来日されましたが、(かつて襲撃を受け死にかけた事のある)17才の愛娘の身を案じ、海外訪問に極めて消極的な彼女のお父様がこの要望に応えたのは、こういった猪木氏の活動に強い恩を感じていたから、という話にも頷けます。

日本社会はついこの間まで「猪木をバカと笑える社会」つまり「戦場で何がプロレスだ、笑わせるな」と言い切れる社会だったと思います。それは幸せな社会だったのかもしれません。でも今は「猪木をバカと笑う天然ボケが許されない社会」に移行しつつあると、この間フランスで起こったテロのニュースを見ながら思っています。

勿論、未来の事は誰もわかりません。アントニオ猪木を尊敬する僕がバカなのか、猪木を笑う方が天然ボケなのかは未だわからないという事です。

2020年の東京五輪の頃には僕の様な主張が「浮世離れした大袈裟な話だ」と嘲笑される社会である事を願っています。

皆さんはどう考えますか?

天野貴昭
トータルトレーニング&コンディショニングラボ/エアグランド代表