因果応報は真実か?セネカの哲学から考える --- 岩田 温

「積善の家に余慶あり」
『易経』の随分と有名な一節で、この言葉を座右の銘とする経営者が多い。言うまでもないが、善行を積めば、必ず幸せになれるという意味だ。典型的な因果応報を説く教えだといってよいだろう。

だが、面白いのは、この言葉を好む人が大抵、事業等で成功しているということだ。思うに、成功する以前から、この言葉を好んでいたのではあるまい。成功を収めた後に、自らの成功は「善行」の結果であると思いたがる心の弱さがこの言葉を愛させるのだろう。現実を眺めれば、善行を積んだ結果、不幸になっている人も数多く存在するはずだ。

成功した人間を励まし、まるで全ての成功者は善行を積んできたかのように思わせ、誠実に生きながらも、不幸な結果に到った敗北者を嘲笑うかのごとき言葉で、私の好みにはあわない。

因果応報。
多くの人々が信じたがる神話だが、どうしても好きになれなかった。

この因果応報を考える際に、極めて面白い視点を与えてくれたのがセネカの「摂理について」という『怒りについて』(岩波文庫)
に収められた短い論考だ。

「いったいなぜ、世界が摂理によって導かれているのに、善き人々に数多の悪が生じるのか」
ルーキーリーウスがセネカに問いかける。まさに我々が問題としてきた因果応報への疑念だといってよい。

セネカは断固して因果応報の必然を説く。世が神の摂理に導かれている以上、善き行いを積んだ人間には、善き結果が待ち受けており、悪に手を染めた人間には悪い結末を迎える。

セネカは云う。
「当然ながら、善きものが善きものを害するなどということは、自然が許さないからだ。善き者たちと神々のあいだには、徳の媒介の下、友情が存在する―友情? いや、それどことか、縁戚、類似だ」(一三頁)

セネカの発言は確信に満ちている。だが、善き行いを積んだ人間が不幸な結末を迎えたという事例を幾例でも挙げられる以上、セネカの言葉を鵜呑みには出来ない。

ここから、セネカは不思議な論理の展開を始める。
(続きはメルマガをご登録の上お読みください)



編集部より:この記事は岩田温氏のブログ「岩田温の備忘録」2015年12月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は岩田温の備忘録をご覧ください。