「中ソ対立」が朝日新聞の経営を決めた

『崩壊 朝日新聞』で興味深いのは、長谷川煕氏(1961年入社)の世代では、朝日の派閥抗争が「中ソ対立」だったという話だ。尾崎秀実のような暴力革命をめざす記者はいなくなったが、戦後の朝日の論調を指導した森恭三は、労組の委員長として「労働運動をプロレタリア革命に発展させる」という声明を出した。

戦後ながく社長をつとめた広岡知男は中国共産党べったりで、朝日は文化大革命を絶賛し、1971年に林彪が変死したときも、朝日だけが1年以上も(中国当局が公式に確認するまで)報道しなかった。広岡体制は1976年に毛沢東が死んで四人組が逮捕されたあと、社内外の批判を浴びて崩壊した。

その「クーデタ」を仕組んだのが、親ソ派の秦正流専務と渡辺誠毅副社長だった。秦は、スターリンが死んだ1952年に「全世界の勤労人民、進歩的人類にとっての悲しみである」と日記に書いたスターリニストだった。渡辺社長の親ソ路線のもとで、編集担当の秦はベトナム戦争や沖縄返還問題などで反米路線を徹底した。

その後の中江利忠社長も「マルクス主義者」を自認していた。慰安婦問題が起こったのは彼の時代だが、誤報が判明してからも社内では言論統制が続いた。長谷川氏は吉田清治の話を不審に思って韓国に取材しようとしたが、出張が許可されなかったという。社会主義という「大義」が先行し、中国や韓国は被害者で日本帝国主義のやったことはすべて悪いという図式で書かないと、出張もできなかったのだ。

もう一つの共通点は、広岡、秦、森など戦後の朝日の主役の多くが、大阪本社の幹部だったことだ。これは慰安婦問題の「主犯」と目される北畠清泰も(本書はなぜか言及していないが)鈴木規雄も同じで、彼らは共産党員だった時期があるとみられる。京都や大阪の「革新府政」の最盛期に、それを応援したのも大阪朝日だった。

私も蜷川京都府政の時代に育ったが、関西にはもともと「反東京=反権力」の気分がある。東大の優秀な学生は官庁や銀行をめざすが、京大は学者やジャーナリストにあこがれる人が多かった。そういう反権力的な空気が、(実際には本社機能のない)大阪本社が反権力の砦になった一つの原因だろう。

さすがに今ではマルクス主義者を自称する記者はいないが、まず「大義」を決め、それに合う事実をさがしてくる「朝日のDNA」は今も受け継がれている。本書も批判している松井やよりの女性国際戦犯法廷をめぐる本田雅和記者の情報漏洩事件もその一つだ。彼がいまだに福島県の南相馬支局長として放射能デマを流しているのだから、朝日の病は深い。

1月からのアゴラ経済塾「失敗の研究」第2部では、こういう政治の失敗も考えたい。