憲法の「ねじれ」をつくった吉田茂

産経の阿比留記者は、私の尊敬する数少ないジャーナリストだ。慰安婦問題についても早くから朝日の誤報を指摘し、私もそれに協力した。しかし彼の「岡田氏の憲法議論は周回遅れ 米国の意向次第だった憲法」というコラムには疑問がある。彼は憲法解釈は「米国の意向次第」で変遷してきたという。

例えば、GHQのマッカーサー最高司令官は占領下の昭和26年元日、日本国民に与える年頭のメッセージでこう強調している。「日本の憲法は国政の手段としての戦争を放棄している。(中略)この理想があまりにも当然な自己保存の法則に道を譲らなければならぬことはいうまでもない」(江藤淳氏著『一九四六年憲法-その拘束』)

これはマッカーサーが再軍備を示唆した演説だが、このあとダレス米国務長官は2度も来日して吉田首相に会い、憲法を改正して日本が再軍備することが講和の条件だと強硬に主張した。しかし吉田はそれを拒否し、警察予備隊を「保安隊」として増強すると約束した。マッカーサーも、国務省の方針に反して吉田の妥協案を認めた。

この吉田=ダレス会談は極秘とされたため、江藤も知らなかった。公式には、アメリカは再軍備を要求しなかったということにされたが、吉田の回顧録では、ダレスの要求(それはアメリカ政府の要求だった)を拒否したことを明かしている。それはあくまでも暫定的な妥協で、吉田はいずれ憲法を改正するつもりだった。五百旗頭真氏は、こう指摘している。

かつて信じられたように、吉田はダレスの再軍備要求を断り抜いたわけではない。吉田は再軍備を密約した。吉田が守り抜いたのは、講和と独立までは再軍備をせず、限定的な軍事力を・英米をモデルとして・ゆっくりと建設するという線であった。(『占領期』p.428、強調は引用者)

つまり日本は「米国の意向」で憲法解釈を変えたのではなく、こうした「解釈改憲」は吉田の方針だったのだ。これは当時はやむをえない妥協だったが、今では日本の安全保障をゆがめ、国会を混乱させる元凶だ。

産経などの保守派がそれを改正しようとするのはいいが、「憲法はGHQの押しつけだ」という話はやめたほうがいい。今のねじれた憲法解釈は、吉田が――そして自民党が――みずから選んだ路線なのである。