商品の現物価格と先物価格の関係を説明する際に、コンビニエンス・イールド(利便性の利得)という概念が使われる。Hatena Keywordの説明を引用すると、コンビニエンス・イールドとは「現物を保有することによって得られるメリット」のことである。「具体的には、一時的な品不足などで利益を得る可能性や生産を継続することによるメリットなどが考えられる」。そして「現物を保有する代わりに先物を買うことで、保管コストや金利コストを負担せずにすむが、現物を保有することで得られるメリットは失う」ことになる。
預金と現金を比較した場合にも、ある種のコンビニエンス・イールド(利便性の利得)が預金にはあるといえる。現金は、少額の決済にはきわめて便利な手段である。しかし、多額の価値保蔵手段としてみたときには、利便性に劣る面がある。現金には盗難のリスクが伴い、多額になるとかさばり、保管に大きなスペースを必要とする。安全な保管スペースを用意するのにはコストがかかる。銀行に預金しておけば、そうしたコストはかからない(さらに加えて、口座振替が利用できるなどのメリットもある)。この分が、預金のコンビニエンス・イールドだといえる。すると、預金の現金に対するメリットは、厳密には預金金利とコンビニエンス・イールドの和である。
それゆえ、預金のコンビニエンス・イールドが2%だとすると、預金金利がたとえ-1%であったとしても、現金よりも預金を保有する方が有利だ(-1+2=1>0)と考えられる。換言すると、預金のコンビニエンス・イールドの範囲内までであれば、マイナス金利は可能だということになる。しかし、預金のコンビニエンス・イールドを(絶対値で)超える値のマイナス金利は可能ではない。そうした大幅なマイナス金利が実施されると、預金をすべて引き出して現金で保有した方がよいということになってしまうからである。
預金のコンビニエンス・イールドがどのくらいの大きさかは、よく分かっていないけれども、この間のヨーロッパの経験等からは1%強くらいはあるのではないかとみられている。また、預金のコンビニエンス・イールドの値は、マイナス金利がどのくらいの期間継続すると見込まれるかによっても変わってくると考えられる。というのは、金庫を設置する等は固定費的な支出だからである。マイナス金利が一時的なら、金庫を購入するまでもないと判断されるとしても、長期化すると見込まれるならば、思い切って金庫を用意しようということになり易い。こうした固定投資の有無によって、預金のコンビニエンス・イールドの大きさは変化する。
準備預金(リザーブ)は、民間銀行が中央銀行(日銀)に預けている預金のことなので、上で述べた議論が基本的に当てはまる。すなわち、少しのマイナス金利の導入で、銀行が準備預金を保有しないようになるとは思われない。しかし、もちろん銀行の資産選択行動には様々な影響が生じるとみられる。可能性はいくつか考えられるけれども、そのすべてが緩和的・景気刺激的なものだとはいえない。
1つは、銀行が預金者に負担を転嫁することである。これまで徴収していなかった口座維持手数料をとるようにするなどのかたちで、預金金利をマイナスにする。マイナス幅が預金のコンビニエンス・イールド未満であれば、直ちに現金流失が生じるおそれは少ない。0%の金利で集めた預金を0.1%の金利が付く準備預金に再預金するのと、-0.2%の金利で集めた預金を-0.1%の金利が付く準備預金に再預金するのは、銀行にとっての利ざやは同じである。もっとも、一斉に口座維持手数料を導入するのでない限り、導入した銀行から導入していない銀行への預金シフトが生じる可能性があり、銀行同士がすくみあって預金者への負担転嫁は実現し難いかもしれない。
もう1つは、日銀の買いオペに応じず、国債保有を続けることである。量的・質的金融緩和とは、日銀が長期国債を買い上げ、代わりに付利付きの準備預金を提供する交換にほかならない。民間銀行からみて、代わりに提供される準備預金の魅力が乏しくなれば、そうした交換に応じる誘因も乏しくなる。したがって、マイナス金利の導入は、ベースマネーの積み上げを難しくしかねない。民間銀行に交換に応じさせるためには、結局、日銀がより高価に国債を購入し、民間銀行に利益供与をするしかない。付利水準を下げた分を国債購入価格に上乗せするわけで、見かけだけの変化にしかならない。
他の可能性としては、有望な貸出先があるならば、民間銀行はとっくの昔に貸出を増やしているはずなので、準備預金のリターンが0.1%から-0.1%に低下しただけで大きく貸出が増加するとは考えがたい。もっとも、外貨建て資産への選好が強まることで、為替レートに円安効果が生じることは考えられる。ただし、円安を促進することがいまの日本経済にとって望ましいのかどうかは別の問題である。
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池尾 和人@kazikeo