ジュネーブ難民条約は忘れられた --- 長谷川 良

オーストリア日刊紙プレッセ2日付に興味深いコラム記事が掲載されていた。心理分析学者マルチン・エンゲルベルク氏の「ベトナム戦争以来、写真(画像)が世界を変える」というタイトルの記事だ。

同氏は「ベトナム戦争で米軍のナパーム弾から逃げる裸のベトナム少女の姿を映した報道写真が米国のその後のベトナム戦争の行方を決定したように、欧州の難民政策もその時々の出来事とそれに関連する画像や報道写真によって豹変している」と解説している。以下、同記事の概要を紹介する。

メルケル独首相は元々、難民ウエルカム政策の信望者ではなかった。同首相は昨年6月、独放送の市民対話番組に出席した。その時、一人のレバノン出身の少女が「ドイツに留まりたいが、強制送還されることになった。家族も自分もドイツが大好きで留まりたい」と泣きながらメルケル首相に訴えた。突然の少女の訴えを聞いたメルケル首相は少女に近づき、「あなたの気持ちはよく分かるが、ドイツは全ての難民を受け入れることはできないのよ」と冷静に説明し、少女を慰めた。
(メルケル首相は当時、厳格な難民政策を支持)

そのシーンが放映されると、「メルケル首相は紛争から逃げてきた難民に冷たい」といった批判の声が国内メディアやネット上で殺到した。その後、一人のシリア難民の3歳の子供の遺体が海岸に打ち上げられた。その溺死体がテレビでお茶の間に放映されると、難民受け入れを求める声が欧州全土に広がっていったことはまだ記憶に新しい。

紛争地シリアからの難民殺到に直面したメルケル首相は8月末、「ダブリン条項を暫定的に停止し、シリアからの難民を受け入れる」と表明した。そして難民収容所を訪ね、ドイツ入りした難民の青年とセルフィー(自撮り)に応じるなど、難民ウエルカムをアピールした。
(メルケル首相は難民ウエルカム政策に変更)

その結果、独南部バイエルン州国境にはオーストリア経由で難民が殺到した(2015年は100万人の大台を突破)。バイエルン州からは難民受入れの上限の設定、国境監視の強化を訴える声が高まったが、メルケル首相は難民受入れの上限設定には反対し続けた。

しかし、11月13日にはパリ同時テロ事件が発生し、テロ実行犯の中には偽造難民で欧州入りした者がいたことが判明。そして大晦日に難民・移民の集団婦女暴行事件が起き、難民への国民の目が決定的に厳しくなった。

それを受け、ドイツの難民政策は他の欧州と同様、厳格になった。メルケル首相は難民受入れ上限の設定こそ拒否したが、受けれる難民数の減少を約束し、国境管理の強化、難民申請者の身元確認の強化など、難民受け入れ制限に乗り出したばかりだ。今年に入り、ドイツ国内では難民襲撃事件や難民収容所の放火などが多発している。
(メルケル首相は厳格な難民受入れ政策に再び軌道修正)
 
以上、メルケル首相の難民政策に影響を与えた出来事を羅列した。これを見ても分かるように、メルケル首相は難民問題では元々明確な信念に基づいて実施してきたわけではなく、その時々のメディアに流れる出来事、それに伴う国民の反応をみて、政策を決定していったことが明らかになる。

欧州で今年、昨年のパリ同時テロ事件のようなテロ事件が起きた場合、ドイツの難民受入れは完全にストップすることが予想される。逆に、ドイツから強制送還されたアフガニスタンの難民家族や若者たちが母国で弾圧されたり、処刑されたニュースが写真とともに世界に発信された場合、難民受け入れを求める声がドイツでも再び高まってくるかもしれない。

ところで、ジュネーブ難民条約(「難民の地位に関する条約」)の第1条には難民の定義が明記されている。それによると、「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること、または政治的意見を理由に迫害を受ける恐れがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けられない者、またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者」となっている。

しかし、欧州各国の難民政策は実際、ジュネーブ難民条約に基づいて機能していない。欧州連合(EU)内相理事会が昨年、16万人の難民の受け入れ分担を決定した時、ドイツやスウェ―デン、オーストリアなど数カ国しかそれに応じていない。ドイツの場合を見ても分かるように、その時々の出来事で触発された難民に対する社会の空気が政治家の政策を決定してきたわけだ。

ナパーム弾から逃げる裸のベトナム少女の報道写真のように、難民の遺体となった子供の姿、レバノン出身の少女の涙など報道写真や画像が欧州の難民政策を決めてきたわけだ。欧州ではジュネーブ難民条約は完全に忘れられている。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年2月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。