ローマ・カトリック教会の最高指導者ローマ法王フランシスコは清貧を説き、華麗な法王宮殿ではなく、ゲストハウス「サンタ・マルタ」に寝泊まりしていることは良く知られている。そして機会あるごとに、資本主義社会の現状を批判してきた。そのトーンが余りにも辛辣なこともあって、南米出身の法王は「解放神学者ではないか?」とこれまでも何度も噂されたほどだ。イタリアのメディアの中には、法王を「革命者」と報じたものがあった。
▲フランシスコ法王(バチカン独語電子版から)
参考までに書くと、解放神学とバチカンの関係は長い。教会の近代化が提唱された第2バチカン公会議(1962~65年)の直後、南米司教会議がコロンビアのメデジンで開催された時、抑圧された民族の解放問題が協議され、社会の改革に積極的に推進していく事が決定された。抑圧された貧者たちの視点を重視する解放神学が誕生した瞬間だ。
▲18世紀の英経済学者アダム・スミス(ウィキぺディアから)
バチカンは1980年代に入り、南米教会の解放神学の拡大に警戒心を強めていく。特に、解放神学がマルクス主義に接近していく傾向が見え出したからだ。バチカン教理省長官に就任したヨーゼフ・・ラッツィンガー枢機卿(後日、ベネディクト16世)は南米の解放神学者グスタボ・グティエレス氏やレオナルド・ボブ氏の著作を批判、1984年には教理省の名で「解放神学のいくつかの側面に関する指針」を発表、解放神学に警告を発した経緯がある。
さて、南米出身のフランシスコ法王は資本主義社会に広がる貧富の格差を指摘し、多くの人間が富の追及に腐心するあまり、人間の本来の価値を失ってきている、として市場経済システムに批判の目を向けている。そして「現代人は消費文化の奴隷となっている」と非難してきた。
フランシスコ法王は今月のビデオ説教の中では、「経済は別の主導原理が必要だ。貧困と地球破壊が加速する今日、新しい生き方が求められなければならない」と主張。1月28日のサンタ・マルタの朝の説教では、イエスの生き方を紹介し、「勝利するために失う」というタイトルの説教の中で、無条件で与えることで、結果として最も大切なものを得るというイエスの話を紹介している。
ところで、英国の18世紀の経済学者、アダム・スミスはその著者「国富論」の中で、「見えざる手」が市場を主導していると記述している。市場の自由競争が結果的には最適な資源配分をもたらすというのだ。たとえば、人間が自身の利益を追求していったとしても、「見えざる手」によって社会全体の利益に合致する。価格形成でも需要と供給がその「見えざる手」によって自然に調整されていくという考えだ。
しかし、21世紀の資本主義経済社会では「見えざる手」にもかかわらず、社会の貧富の格差は拡大している。例えば、看護師の平均給料が1000ユーロである一方、金融ディ―ラー(トレーダー)は10万ユーロを稼ぐ。その給料の格差はどこからくるのか。個人の利益追求が社会のそれと合致していない。そこでフランシスコ法王の批判となるわけである。
無形の神を信じる宗教世界の代表、ローマ法王は経済界を牛耳る「見えざる手」を悪魔だと指摘し、現代人は偶像崇拝に陥っていると主張する。換言すれば、神を信じるローマ法王は「見えざる手」を操るもう一つの神と宗教戦争に臨んでいるわけだ。
キリスト教はイエスの隣人愛を説く。それを教会内だけではなく、政治、経済など社会の各分野で実践すべきだと主張する。だから、経済活動でもその隣人愛を実行し、利己的な富の追及を止め、奉仕を求める。しかし、政府が国民の経済活動に干渉し、貧困対策や手厚い福祉政策を実施していけば、国民の経済活動は委縮し、国民はやる気を失う。過保護の子供の姿だ。高福祉国家の欧州で見られる現象だ。
そこで経済活動は市場に委ね、支援も福祉も最小限度に留め、国民にやる気を鼓舞すべきだという主張が出てくるわけだ。「‘隣人愛‘の経済ではなく、一種の‘遠人愛‘の経済政策」と表現している経済学者もいる。
(オーストリア日刊紙プレッセに寄稿した経済学者シュテパン・シュールマイスター氏の記事「ネオ・リベラル・キリスト教とその預言者たち」を参考)
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年2月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。