アルプスの小国オーストリアのヴェルナー・ファイマン首相を見ていると、「よく頑張っているな」という思いが少しは出てくるが、それ以上に、「この人には自身の信念はあるのか」と首を傾げたくなることが多い。
▲オーストリアのファイマン首相(オーストリア連邦首相府のHPから)
日本の友人がメールで、「君の国の首相の名前がNHKのニュースで出ていたよ」と教えてくれた時、「へェー」と驚いてしまった。欧州に殺到する難民問題関連報道の中でファイマン首相の名前が出たというのだ。
当方が知る限りでは、難民問題が大きなテーマとなる前には、ファイマン首相の名前が日本のメディアで報じられたことはなかったはずだ。北アフリカ・中東諸国から昨年100万人以上の難民が欧州に殺到しなければ、多分、ファイマン首相の名前は日本の大手メディアには登場しなかっただろう。
ファイマン首相はオーストリア第1党与党の社会民主党党首だ。グ―ゼンバウアー社民党政権を継承し、社民党と国民党の2大連合政権の長として2008年12月から今日に至る。政権7年目が過ぎたばかりだ。短命政権が多い欧州政界では、メルケル独首相を例外とすれば、ファイマン首相は珍しい存在だ。欧州連合(EU)首脳会談開催前後、ファイマン首相にマイクを突きつける欧州メディアも出てきた。長期政権の首相だからそのコメントを拾おうというわけだ。
そこまでになるためには、ファイマン首相も苦労したはずだ。首相就任当初、首脳会談でもまったくメディアの関心を引くということはなく、もっぱら自国メディアのインタビューに応じる姿しか見られなかった。それが変わったのだ。「継続は力なり」という哲学者の名言を思い出す。
それでは、ファイマン首相の名前が欧州レベルにまで拡大する契機となった難民政策について紹介する。
フィアマン首相には最初から独自の難民政策はなかった。隣国の大国・ドイツのメルケル首相の難民政策をフォローし、メルケル首相の難民政策の後を忠実にフォローしてきただけだ。
‘Er kommt mit keiner Meinung rein und geht mit meiner Meinung wieder raus.‘(彼は自分の考えなどなく、メルケル首相と会談し、メルケル首相の考えをもって帰っていった)とメディアから揶揄されたほどだ。
オーストリアにも昨年9万人の難民申請者が登録されたが、100万人以上の難民の多くはドイツを目指した。そこでメルケル首相の難民歓迎政策を支援し、ドイツを目指す難民・移民たちをドイツにスムーズに送り込むことがオーストリア側の使命と受け取ってきた。
「どうせ、わが国に難民申請する者は少ない」という安心感から、ファイマン首相は連立政権パートナーの国民党や野党第一党の極右政党自由党の反対にもかかわらず、難民移民の入国を許してきた。
ここまでは良かったが、ドイツ国内で難民受入れに反対する声が出てきた。メルケル首相も歓迎政策から受入れ制限へ修正せざるを得なくなった。メルケル首相の難民政策の変遷は「ジュネーブ難民条約は忘れられた」(2016年2月4日)のコラムの中で詳細に紹介したから、関心がある読者は参考にして頂きたい。
お手本としてきたメルケル首相の難民政策が変わると、ファイマン首相も急遽、国境に壁を建設する一方、国境監視の強化に乗り出した。ドイツが対オーストリア国境を監視強化すれば、オーストリア国内に留まる難民が急増する。その数は膨大だ。オーストリアはドイツではない。そこでオーストリア側も急遽、厳格な難民政策に修正せざるを得なくなったわけだ。
オーストリア政府は19日から、1日当たりの難民申請受付数を最大80人に、ドイツを目指す難民の入国も1日3200人とする厳格な政策を実施した。冷戦時代、200万人以上の旧ソ連・東欧諸国からの難民を受け入れ、「難民収容国家」という称号を受けたこともあったが、殺到する難民をストップさせるためになりふり構わず国境を閉じる政策に変更せざるを得なくなったわけだ。
メルケル首相を信じ、その足跡をフォローしてきた忠実なファイマン首相は今日、EU諸国の中でも最も厳格な難民政策を実施する加盟国の首相となった。
ファイマン首相は信念の人ではないが、同首相を風見鶏と酷評することは適当ではないだろう。小国は生き延びていくためにあらゆる手段を駆使しなければならない。ファイマン首相はオーストリアの生きる道を懸命に模索している小国の首相だ。それ以下でもそれ以上でもない。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年2月21日の記事を転載させていただきました(編集部でタイトル改稿)。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。