北朝鮮の大使はいつまで駐在続けるか --- 長谷川 良

アゴラ

駐オーストリアの金光燮・北朝鮮大使( Kwang Sop KIM)は今月18日で駐在23年目を迎える。オーストリア外務省のHPで駐在外交官リストを見る限りでは、金大使は文字通り最長駐在大使の称号を受けるはずだ。最長駐在記録が金大使個人に本当に栄光を意味するのかはもちろん別問題だ。


▲金大使が信任状を提出した日(1993年3月18日、ウィーンで撮影=掲載紙から)

知り合いの北外交官は、「金大使はウィーンが好きだからこれからも駐在するだろう」と説明するが、外交官個人の好き嫌いで駐在期間の長短が決まるわけではないことは言うまでもない。数年前、金大使が同国初の欧州連合(EU)担当大使に就任するためブリュッセルに移動するのではないかという噂が流れたが、結局は噂で終わった。


▲UNIDO総会に出席した金光燮大使(中央)(2015年11月30日、ウィーン撮影)

金大使が1993年3月、ウィーンの大統領府を訪れ、当時のオーストリアのトーマス・クレスティル大統領に手渡す信任状を持参した日、当方も現場で取材した。オーストリア軍の歓迎伴奏を受けながら車から降りてきた金大使が大統領府の秘書に挨拶され、大統領府の中に入っていった。

当方は金大使の駐オーストリア大使の駐在初日の晴れ姿を写真に撮ることができた。当方は当時、金大使が故金日成主席の娘と結婚した外交官であることを知っていた。だから、日本人記者にとってはニュースバリューのある対象だった。

ちなみに、金大使に信任状を渡す日、写真を撮ったのは当方だけだった。換言すれば、新任大使が金王朝の親戚関係者であることを知っていたジャーナリストは当方以外にはいなかったからだ。

金大使が大統領府に近づくと、素早く近づき写真を撮った。大統領府関係者がストップをかけようとしたが、当方が記者証を提示したので撮影を認めた。今でも当時の状況を鮮明に思い出す。その金大使があれから23年間、ウィーンに駐在するとは本人を含めだれも予想していなかったことだった(金大使はオーストリア担当前はチェコ大使を5年間務めている)。

金大使の夫人、金敬淑夫人は故金日成主席と金聖愛夫人との間に生まれた長女だ。金大使と敬淑夫人の間には2人の息子、忠民と東民がいる。敬淑夫人は故金正日総書記の異母の妹だったこともあって、結婚した直後から金大使は外様大名のような立場を甘受せざるを得なかったわけだ。1994年に金日成主席が死亡すると、その後継者、金正日総書記の前で絶対忠誠を誓った。その後17年間余り、金正日総書記とは義兄弟の関係だった。そして金大使は今日、自分の息子のような年齢の金正恩氏に仕える外交官となった。

金大使の23年間は北にとっても波瀾万丈の時代だった。核問題で国際原子力機関(IAEA)が1993年2月、北に対し「特別査察」の実施を要求した時、北は特別査察の受け入れを拒否し、その直後、核拡散防止条約(NPT)から脱会を表明した。大聖銀行出向の銀行マンが腐敗問題で処罰され、駐ハンガリーの北実業家亡命事件など不祥事が生じたが、金大使はそのようなネガティブな影響を受けることなくウィーンに駐在し続けた(金大使はハンガリーも兼任)。

金大使駐在時で最大の出来事は欧州で唯一の北直営銀行「金星銀行」(ゴールデン・スター・バンク=1982年創設)が閉鎖されたことだろう。首都ウィーン市7区にあった北の唯一の直営銀行「金星銀行」が2004年6月末、閉鎖に追い込まれた。同銀行は北の欧州での不法な経済活動の主要拠点だった(「米情報機関の欧州での成功例」2013年7月27日参考)。

北朝鮮は冷戦時代、オーストリアで欧州最大の人脈と拠点を構築していったが、それらは次々と閉鎖され、崩壊していった。金大使はそれらの出来事を全て目撃していたはずだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年3月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。