憲法は、戦争もしなければ平和も守らない


「任期中に成し遂げたい」と改憲発議に執念を燃やしていた安倍首相だが、その舌の根も乾かぬ内に「国民的な理解が広がっていない」とトーンダウンしてしまった。そればかりか、肝心の自民党憲法改正推進本部までもが開店休業状態では、改憲に国民的理解が広まる筈もない。

その一方、護憲派は相も変らず「日本は憲法9条のお陰で平和だった」と根拠のない主張をくり返すばかりで、これでは詐欺的な詭弁だと言われても仕方ない。

護憲派が誇る「平和憲法」だが、平和国家として真っ先に世界の人々の頭に浮かぶのは「スイス」であっても、日本ではない。そのスイス憲法は第58条で「軍隊は、戦争の防止及び平和の維持に寄与する」と明記し、国民皆兵制度を定めている。

「徴兵制」以上に厳しい「国民皆兵制度」を採用している国は イスラエル、 トルコ、 韓国、 北朝鮮、 エリトリアなど周辺国との紛争が絶えない国に限られているが、成熟した民主国家としか国境を接していないスイスが国民皆兵を維持している背景には、1999年の憲法改正でもこの条項を守った国民の強い意志がある。

と言うのは「永世中立」を保つには、自国が中立の立場である事を宣言するだけでなく複数の国家の同意による「中立化」と自国領土を他国の侵害から守る常設的な武装が求められるからである。これは、一種の「集団的自衛条約」とも言える。

憲法に戦争の放棄を規定した国は日本だけではない。
例えば、イタリア憲法は「他の人民の自由を侵害する方法としての戦争を否認」し、ドイツ連邦共和国基本法も「侵略戦争」の禁止を掲げているが、何れも「侵略戦争」の否定に限定しており、日本国憲法第九条 の様に「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄し、国の交戦権は、これを認めない。」等と自助権(自衛権)まで否定している国は見当たらない。

「自助努力」まで否定する一人よがりの憲法は、地域協力が進む現在の世界では他国からの孤立を招き、欧州であれば欧州同盟への加盟すら出来なくなって仕舞う。見方を変えると「日本国憲法第9条」は日本の孤立化を招く規定だとも言える。

成熟した立憲民主主義国家に囲まれたスイスでも中立を維持する為の条件である自助(軍事力保持)を怠らない時、領土問題で対立する国(中国、ロシア、韓国・北鮮)に三方を取り囲まれた日本が軍事力保持を否定する神経は他国民には理解できない重度の「茹で蛙症」としか思えない。

中でも、日本を何時でも核攻撃できると豪語してはばからない北朝鮮は、2009年に改定した新憲法で「先軍」を指導思想に定め、国防委員長を「最高領導者」と崇める「軍隊優先政治」を鮮明にした「好戦国家」であり、「北朝鮮への敵視政策が日本にもたらすのは破滅だけだ」とくり返す侵略性の強い国であり、日本国憲法を読んで日本に対する攻撃を止める等とは到底想像出来ない。

国の価値観と共に守るべき物に領土があるのは各国共通だが、日本の領土面積は世界61位でも、排他的経済水域面積ではカナダに次ぎロシアより大きい6位の広さを持っている事も憲法や集団自衛権を考える上で重要な項目である。

日本の護憲派が信ずる不戦の誓いは理想としては賞賛に値するが、国際紛争を平和的手段により解決する理想主義的な試みとして第一次大戦後に締結された「パリ不戦条約」の悲劇的失敗からも現実世界の難しさを学ぶべきである。

現在の世界は当時とは比較にならない程多様化し、不戦は愚か停戦も満足に出来ないのが現実で、「9条」で世界平和を達成するなどと言う主張は冗談にもならない。この様な厳しい世界だからこそ、国家の基本ルールのあり方を真剣に考える事は国民の大事な役割であり、安倍首相の改憲発議願望論を契機に、憲法論議が国民に浸透する事は誠に好ましい。

然し、いくら戦後70年にわたって「日本の平和憲法が日本の平和を守った」と聞かされて来たからと言って「憲法9条さえあれば日本は平和だ!」と言う単純な護憲論や「アメリカの押しつけ憲法は許せない」等と言う国粋主義的改憲論は、共に余りにも感情的で建設的ではない。

憲法が国民の命運を決める重要な章典である事は言うを待たないが、戦争は人が始めるのであって憲法は戦争も出来なければ平和を守る事も出来ない事だけは心に留めて欲しい。

9条に限らず多くの欠陥や内部矛盾を抱える現憲法を粗悪品だと考える筆者は改憲派に属するが、改憲派の論客の主張に立憲民主主義とは相容れない皇国史観や第2次大戦擁護の風潮が見え隠れする度に、戦前復帰への警戒感がつのるのも事実である。

いずれにせよ、誰の手で何を目的に改正するかの論議を加速させて、国家の理念と統治形態を明確にした新憲法を一日も早く制定して欲しいと言うのが筆者の願いである。

北村 隆司