「世界遺産の遺産くいつぶし」考

若井 朝彦

文化庁の京都移転が決定の運びだそうである。法律で決まった消費税率の変更期日であっても、現政府与党はけっこう容易に変更するほどであるから、これが実際の移転になるまで(または移転の取止めになるまで)、これからどんなドラマがあるのだろう。

関係各位には、騒動を面白がって申し訳ないが、わたしとしてはこのアゴラに移転反対をすでに書いているところ。だがどうしても文化庁が京都にくるのであれば、名称に一字を足して

  古 文 化 庁

にすること、この際ぜひおすすめしたい。東京には知財専門の「新文化庁」を設置するくらいで、ちょうど塩梅がいいと思う。

さてその文化庁が、直接間接こもごもに関係するのが世界遺産登録の文化遺産である。京都滋賀には、その地域を一帯として17個所の文化遺産があるのだが、しかしこの文化遺産も近年、「文化」でも「遺産」でもなくなりつつある。

不動産価値が上がって、周囲が、そして本体が蚕食されているのである。サンプルを挙げると

 《世界遺産に隣して住まう》

といった具合に、マンションがどんどん増えている。上記は即席に作ってみた例だが、そっくり類例のキャッチは、すでにあること疑いもない。

そして行政としての京都市役所も、すでにこの流れに乗っている。

市が所有する物件である二条城、そこに隣接した阪急のマンション建築には、市も異様なほどの反対圧力をかけたが、北陸新幹線のルート選定や在来線の新駅開業で関係浅からぬJR西の下鴨神社の開発に関しては、明確なアッピールを出すこともなく、なんとも簡単に開発許可を下ろした。その対応を振り返ってみるとき、これはほとんど、「どうぞどうぞ」とばかりの促進だったのではあるまいか。

京都の文化観光的価値が上がる、すると不動産価値が上がる、といった連鎖がある。その結果、神社も寺院も市街をはじき飛ばされて、移転する例が少なくない。また京都の文化は、かなりの度合いで代々の家業が支えている。建築だけではなく、人があればこその文化。そういった家族が、相続に際して京都を離れなければならなくなるケースも加速している。不動産価格の高騰は、環境と景観と古建築を侵蝕するだけにはとどまらない。

それでも京都が観光的にやっていけるのは、(首都圏から比較して)周回遅れのトップランナーの状態を、どうにかこうにか維持しているからだ。しかしおくれおくれしつつも、京都市全体が開発のトラックを走り続けていることには変わりない。京都市はこの状態でありながら、またみずからが、開発という名目で破壊することもありながら、よくも文化庁の招致ができたものだ。実に恥ずかしいことに思う。

ところでその世界遺産であるが、京都滋賀が文化遺産の登録を受けたのが1994年。しかし当時はこの仕組みが何であるのか、社寺も行政ももうひとつよく分からず、申請をしなかった古刹もなくはなかった。いまでもその方面から、後悔の言葉が漏れてくることがある。

実際、昨年あらたに社殿の国宝指定を受けた石清水八幡宮は、世界遺産の追加登録に前向きである。この八幡宮は、京都市街からすると、淀川をはさんで南対岸、八幡市の男山(おとこやま)の森厳としたいただきに御鎮座。


(ある日の石清水八幡宮)

明治の廃仏毀釈があって、この八幡宮もその際に大きく改まり、古体そのままとはいえないのだが、すでに登録の他の社寺また建築と比して、世界遺産であることには、まったく問題はないだろう。しかし男山一帯がどこまでも神域というわけではない。

京都から大阪に電車で行く時、JRでも阪急でも(おそらく新幹線でも)山崎にさしかかると、対岸にはっきりとわかるので、一度ご覧いただければと思うのだが(京阪はまさにそのふもとを走る)、この男山は、大阪側の西半分はとっくの昔に造成済みである。

東側の神域は神域として、また西側の団地は団地として落ち着いた住空間があり、それは現在でも適度に区切られてはいるのだが、こののち、静かな東側はどうなってゆくのであろうか。

世界文化遺産というものは、商業的不動産的にはたしかに正の記号であるが、肝腎の文化的にはまったく心許ない限りだ。下鴨神社がそうであったように、世界遺産の「遺産」は、いとも簡単にくいつぶしの標的に変わる。男山の神職みなさまには、どうかいま一度立ち止まってご検討をと、ぜひにも申し上げたい。

 2016/03/17
 若井 朝彦(書籍編集)

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