から続く。
原発事故、残る傷跡
(写真1と2)人の気配がなく、草木の生い茂った避難地域
福島原発事故の影響は大きい。その周辺部の光景のさびれ方に、悲しさを感じた。サッカーのナショナルトレーニングセンターであったJビレッジ(福島県楢葉町)が、事故直後から工事の拠点になっている。ここに作業員などは集まり、国道6号線を使ってバスで第1原発に向かう。私たちもそうだった。ちなみに、Jビレッジは日本サッカー協会に返却され2018年を目標に再開の予定だ(写真3)。
(写真3)除染と塗装の塗り直しの進むJビレッジ
原発事故の被災地は空間の被ばく線量によって「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」分けられている(図表1)。北上すると昨年9月に避難指示準備が解除された楢葉町にさしかかった。震災前に人口約7400人だったが、そのうち今年3月までに町に戻ったのが約400人しかいない。一見すると町は整理されていたが、人気は少なかった。(15年9月のルポ「「子どもの声を聞きたい」楢葉町、帰還と課題」)
(図表1)福島県の避難地域の状況(15年9月から現時点まで)(福島県資料より)
そこを過ぎて富岡町への国道沿いには、郊外の大型量販店、住宅が並ぶが、どの店も扉は閉められ、草に覆われている。そして、ところどころに除染の土が大量に盛られている場所があった。アゴラ・GEPRは過剰な放射線防護の弊害や、除染の年1mSvの問題を指摘してきた。地域の荒廃の形で、現実の問題になっていた。(写真1、写真2、写真4)
(写真4)除染で出た大量の廃棄物。貯蔵施設の建設は難航している
福島原発からの帰り道は、バスで東電の石崎芳行副社長・福島復興本社代表に案内していただいた。石崎氏は以前、福島第2原発の所長で現地に惚れ込み、志願して福島復興のために働こうとしている。「地域の皆さま、日本中の皆さまに大変なご迷惑をかけていることをおわびしたいと思います。復興のための取り組みを続け、責任を果たしていきます」と、石崎副社長はあいさつした。
経済記者として東電を取材し、震災前と比べて印象に残る変化は、経営幹部の多くの人が、物腰が柔らかで腰が低く、コミュニケーション能力に長じ、雰囲気の暖かい明るい人に変わったということだ。石崎副社長からもそれを感じた。以前は退任した事故当時の勝俣恒久会長のように、東電幹部には怜悧(れいり)な感じのする紳士が多かったように思う。社内改革が進み、以前よりも社会との関係を深く考える人が増えたのだろう。これはとても良い変化だ。
東電と地域社会、共存への第一歩
現在は1800人の東電の社員が、福島県内で働いている。原発事故で避難を余儀なくされた住民らを、社員が足しげく訪れている。訪問は延べ22万回になったという。東電の社員は総数3万8000人なので、その頻繁な訪問数が分かるだろう。
石崎氏の担当は、福島の復興と賠償問題、地元対応だ。石崎氏は自ら時間をつくり東電の青い制服を着て現地を回り、社員にもそうすることを呼びかける。事故直後は石崎氏や社員も胸ぐらをつかまれたり、怒鳴られたりすることがあったという。しかし最近はそういうこともなくなった。昨年頃から訪問数が減った報告があった。顔なじみになった社員が、住民から「寄って行きなさい」と引き留められ、長時間を話し込むようになったためという。「東電は許せないが、あなたは信用できる」と、社員が言われることもあるそうだ。福島県は、以前から人情の細やかさで知られた土地だ。感情は少しずつ和らいでいるようだ。
東電は福島浜通り地区では、雇用と仕事を作り出す重要な地域社会の構成員だ。地域の復興を議論する会にも、東電の社員が少しずつ呼ばれ、意見を聞かれる状況になったという。事故による住民の感情は和らいでいるようだ。しかしはいるが、「壊れた信頼の回復はまだ途上ですし、復興も始まったばかりです。また私たちの取り組みが、偽善と思われることを心配しています。本当に福島を復興させたいと私たちが思っていることを伝えていきたいです」と石崎氏は話した。
食から雇用とつながりを生む
石崎氏の案内で福島給食センター(福島県大熊町)を見学できた。東電の関連会社が給食会社の日本ゼネラルフード(名古屋市)と共に会社を設立し、15年6月から本格的に運営されている。現在は1日3000食を作り、福島第1原発で5種類のメニューを380円、昼と夜に提供している。もちろんそんな安い値段で食事は提供できず、東電側がある程度の負担をしている。食材は原則、福島県産のものを使用している。約100人の従業員はほとんどが福島県内の出身者で、そのうち20人は原発の立地する浜通り地区の人だ。(写真6、7)
ユニークなことに、給食センターには2階に見学コースがあり、作業が見られる。ちょうど夕食の準備が行われ、清潔な設備で効率よく大量の食材が調理され、大量の食器が洗われる情景を見学できた。こうした給食づくりは、なかなか見る機会がないため、興味深かった。今後は地元の人の招待を増やし、食を通じて、廃炉作業、地元の雇用や経済がつながっていることを、多くの人に知ってもらいたいという。(写真8、9)
(写真8)福島産の野菜を作った調理。機械化を進めているが、人手は必要
(写真9)浮かぶのは1日3000人分以上洗わなければいけない食器
ここは福島県大熊町の帰還準備区域内にあるが、線量はほぼ問題はない。東電は今後、この給食センターの周りに福島勤務の社員の社宅を整備し、町の復興に役立てたいという。「給食センターは小さな存在ですが、それによって経済活動が広がれることが、復興につながる」と、石崎副社長は期待している。
賠償の後の復興を考える
福島浜通りの復興は、いつまでも東電の賠償と、国の負担に頼ってはいられない。それらの原資は東電に消費者が支払う電力料金と国税だ。人が戻り、自律的に経済活動が回らなければ、地域は復興しない。
15年6月に政府は「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」の2区域(約5万5000人)に対する避難指示を2017年3月までに解除し、両区域の避難者の精神的損害に東電が支払う賠償(慰謝料)は18年3月末で終了する方針を発表した。さらに東電は、そこから商工者向けの営業・風評被害に対する賠償は2年分を一括で支払う方針を示している。東電は今年3月までに約5兆9451億円の賠償を支払い、それは総額7兆円以上に膨らむ見通しだ。賠償は避難地区の住民に1か月当たり10万円を支払うなど、かなり手厚い対応だ。ただし2020年の後も、石崎氏は「福島の復興のために責任を果たしていきます」と話した。
東電には福島原発事故の責任があるし、それは批判もされるべきだ。そして事故の被災地にはさまざまな問題がある。しかし、こうしたまじめに復興に取り組む東電社員の姿、また給食センターのような雇用の創出や復興の始まりの例は、もっと知られてもよいと、私は思った。
福島原発、周辺地域については、悪いイメージが事故によってつくられ、それが今でも残っている。しかし現地の状況は、それにかかわる人々の努力で日々変化して、一歩一歩改善している。事故前の福島は戻らないが、希望を抱ける新しい姿に生まれ変わるかもしれない。
私たちは、そうした福島事故の前向きの変化を直視し、正しい情報に基づいて福島の自立した復興と東電の頑張りを応援していくべきではないだろうか。
(文・石井孝明 写真・菊地一樹 アゴラ研究所)