「愛」と「祈り」でテロを屈服できるか

ドイツ福音主義教会(EKD)元議長で神学者マルゴット・ケスマン(Margot Kasmann
)女史はビルド日曜版(3月27日)とのインタビューで「テロに対して武器や憎悪で対応すべきではない」と主張し、「祈りと愛」で応じるべきだという。
▲バチカンでの復活祭の記念礼拝(ドイツ公営放送の中継から、2016年3月27日)「パリ同時テロ」(130人が犠牲)、「ブリュッセル同時テロ」(28人死亡)事件後だけに、同女史のアピールは率直に受け入れられるだろうか。テロ犠牲者の家族だけではなく、一般的にも強い反発が予想される。想像するが、彼女は反発が出るのを知った上で、イエスの隣人愛、「敵を愛せよ」を思い出すように言いたかったのではないか。同女史の発言をもう少し紹介する。
「イエスはわれわれに課題を残していった。すなわち、敵を愛せ、自分を迫害する者のために祈れだ。テロリストは神の名で人間を殺す。これほど大きな挑発行為はない。われわれはそのテロリストに対し祈りと愛で向かい合うべきだ」
「人間的感情からいえば、報復したい思いが湧いてくるが、憎悪に対して憎悪で応じるべきではない。人類の歴史で偉大な人間はスターリンでもヒトラーでもポル・ポトでもない。マーチン・ルーサー・キング牧師であり、マハトマ・ガンディーだ。彼らは 暴力では対応しなかった。キリスト者は暴力のサークルを断たなければならない。それこそ真の勝利者だ。イエスは十字架上で死んだが、彼の功績は忘れられなかった。彼は剣を決して握らなかった」その上で、同女史は、「テロとの戦いの為にオープンな社会の価値を捨ててはならない。もちろん、国家は国民を保護する義務がある。欧州では自由を実現した。それをテロリストによって制限されてはならない。われわれはテロリストに脅かされてはならない。路上で踊り、喫茶店に座り、サッカー試合を中止してはならない。われわれはテロリストたちに恐れていないことを示すべきだ」というのだ。一方、ローマ・カトリック教会のドイツ教会ミュンヘン教区のライハルト・マルクス枢機卿(Reinhard Marx )も、「テロリストの憎悪と悪意に対し、キリスト教の愛で向かい合わなければならない。考えられないような恐ろしい罪に対して、最初の反応はどうしても警察権力や政治的対応になりやすいが、悪に対して愛で対応すべきだ」という。新教のケスマン女史とほぼ同じ論調だ。換言すれば、両者ともテロに対して愛、祈りで対応すべきであり、暴力に対し暴力で対抗してはならないと戒めているわけだ。愛と祈りが大きな力を有していることは疑いない。しかし、多くの人々を非情に殺害するテロリストを前に、愛と祈りで対応している時だろうか、という懐疑的な思いが湧く。愛と祈りは最終的には勝利するだろうが、勝利の日を迎えるまで多くの時間、ひょっとしたら年月が必要となる。21世紀に生きるわれわれにそのような猶予があるだろうか。米共和党大統領候補者テッド・クルーズ氏は、「私が大統領になったら、イスラム教スンニ派過激組織『イスラム国』(IS)拠点を爆撃し、壊滅させる」といって憚らない。クルーズ氏だけではない。テロ対策では欧米指導者の口から愛や祈りという言葉は聞かれない。

愛は人の心を幸せにし、真剣な祈りは病を癒す。優しさと思いやりの深い人々はテロリストを力で押さえつけることに抵抗を覚えるかもしれないが、戦わなければならない時を逃すと、さらに多くの犠牲者が出る。イエスは弟子たちを伝道に派遣する時、「蛇のように賢くあれ」と述べた後、「鳩のように素直であれ」と結んでいる(「マタイによる福音書」第10章)。決して逆ではないのだ。

ドイツ新旧両教会の代表的指導者の「愛と祈り」の発言は残念ながらタイムリーではない。欧州のハウスが燃えている。先ずは消火に乗り出すべきだ。テロリストの改心やイスラム教徒への教育・統合問題はその後でも十分だ。消火の時を逃すと、ハウスは全焼してしまうのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年3月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。