聖徳太子架空説という悪質な冗談

八幡 和郎

『日本書紀』などでの聖徳太子の業績が誇張だという見解は以前からあったが、大山誠一が1999年に『「聖徳太子」の誕生』を発表して大胆なものになった。

用明天皇の子である厩戸皇子の存在をを否定しているわけでないので、『架空説』等と言うこと自体がうさんくさい。聖徳太子という呼び方は生前のものでないが、それなら弘法大師も応神天皇も、昭和天皇だって生前にそう呼ばれてない。しかし、昭和天皇架空説など誰も言わない。

大山説は冠位十二階と遣隋使以外は全くの虚構で、『隋書』には推古天皇や厩戸王の名が登場してないから遣隋使にも無関係で何も残らないという極端なことをいうが、広い意味での架空説と言うことなら、日本書紀やその後の伝承で太子の業績が著しく誇張されており、その多くは蘇我馬子の仕事であって、大化の改新で蘇我氏を倒した天智・天武系の天皇や藤原氏が、蘇我氏の功績を隠すために聖徳太子を神格化したと信じている人は多い。

しかし、この動機の説明はまったく成り立たない。越前から来た継体天皇のあとは、大和で生まれ母方から仁徳系(仁賢天皇の孫)の血を引く欽明天皇が若すぎたので、越前からついてきた子である安閑・宣化の兄弟がとりあえずつないで欽明に継承させた。

欽明の子の世代では、宣化天皇の皇女を母とする年長の敏達天皇が継承し、蘇我氏出身の母を持つ用明や崇峻天皇が続いた。

そのあと、本来なら欽明の孫世代から選ばれるはずで、用明天皇の子の聖徳太子や竹田皇子(敏達・推古天皇の子)は、まだ若かったので、敏達天皇の子で蘇我氏の血を引かない年長の押坂彦人大兄皇子がが順当だった。だが、それを避けるために、推古天皇(欽明天皇皇女・母は蘇我氏・敏達天皇の皇后)が中継ぎで即位した。

推古天皇のあとには聖徳太子か竹田皇子が即位するはずが、推古天皇が聖徳太子・竹田・押坂彦人大兄皇子より長生きしたので、欽明孫世代は飛ばされた。

そこで、推古のあとは、欽明曾孫世代で、押坂彦人大兄皇子の子の舒明天皇と聖徳太子の子の山背大兄王子(母は蘇我馬子の娘)が候補になり、蘇我氏は後者を望むのが自然だったが、人格的に未熟だと言うことで蘇我蝦夷は舒明天皇を選んだ。

舒明天皇の皇子に、蘇我馬子の娘を母とする古人皇子がいたのでそれへのつなぎだったとみられる。舒明天皇の死後は皇子たちが若かったので、皇后が斉明天皇になり、将来は古人皇子が継ぐと考えられたが、阻止すべく斉明天皇と、弟の孝徳天皇、子の天智天皇が組んで立ち上がったのが大化の改新だ。なにしろ、天智にしてみればじっとしていたら皇位に就けなかったのみならず粛清された可能性が強いので当然の行動だ。

つまり、天智・天武にしてみると、聖徳太子は本来、天皇になるべき祖父(押坂彦人大兄皇子)を邪魔した不倶戴天の仇敵である。その聖徳太子をありもしない功績を並べて称揚する理由がまったくない。

さらに、大化の改新はアンチ蘇我蝦夷・入鹿だが、馬子が恨まれる理由は乏しく、蘇我馬子の孫たちの多くが反乱側が与している。

藤原不比等が聖徳太子を日本書紀で持ち上げたという人もいるが、そもそも、①不比等が日本書紀に嘘を書かせるほど力があったということもありそもないし(藤原不比等を巨人だと言い出したのは京都大学学派の根拠なき妄想)、②不比等の正夫人で藤原四兄弟のうち三人の母となった娼子は、馬子の曾孫であって、この観点からも馬子を悪く書く動機は全くない。

聖徳太子が抜群に立派で広く尊敬されていたということは間違いない。ただし、その名声が故に、他の人の業績まで一部が太子の功績として書かれることくらいはあったかもしれないというのが正しい解釈である。

皇位継承については、文武天皇以前は、おおむね30歳以下での即位はなく、そういう不文律があった可能性が強いということを前提に理解すべきです。。

八幡 和郎
PHP研究所
2015-02-04

編集部より;この原稿は八幡和郎氏のFacebook投稿にご本人が加筆、アゴラに寄稿いただました。心より御礼申し上げます。(※9日13:25 一部修正しました。)