新羅の三国統一はなかった

八幡 和郎

韓国・朝鮮国家の統一は、新羅によるものだと半島の人もいっていましたし、日本人もそう考えていました。ところが、戦後になって、北朝鮮が渤海も朝鮮人の国だから、高麗の成立を持って統一というべきだといいだし、それに対抗して、韓国でもそれ以前は新羅と渤海の南北国時代だというように変わりました。歴史上、いちども彼ら自身が意識していない歴史が突然に出現して疑いない事実になるのが面白いところです。

それはともかく、「新羅の統一」についても、新羅が百済と高句麗を滅ぼして統一したといわれているのですが、これは史実とは違います。

半島では檀君という人が4000年前に朝鮮を建国したと現在は、いってますが、これは、12世紀に成立した「三国史記」にも載っていない民間伝承を近代になって正史にしただけです。その後、満州から北朝鮮にかけて箕子朝鮮とか衛氏朝鮮といった国を中国人が建国しました。

しかし、漢の武帝が半島北部を併合して、楽浪郡などを置いて、内地化しました。植民地では無く完全な併合でした。一方、半島南部は小国分裂が続き経済的にも後進地域でした。そして、四世紀になると、満州の高句麗が楽浪郡などを滅ぼし、南からは日本が進出し、百済や新羅も成長してきます。

それから、日本領だった任那が滅びるとかいろいろあって、結局、六世紀には、高句麗、百済、新羅が半島を三分割しました。そして、高句麗は隋の三度にわたる侵攻を食い止め、百済は日本の支援を得て、日本も律令体制を建設して強大化してきましたので、新羅には滅亡の危機が迫っていました。

そこで王族の一人だった金春秋は、六四八年に唐に行って、太宗と同盟関係を成立させ、六四九年に唐の衣冠礼服の制度を採用、六五〇年に独自の年号を廃止して唐の年号(永徽)を用いることにしました。姓も中国風の一文字に思い切りよく変えました。つまり半独立国とも言うべき「属国」となることで、生き残りと領土の拡張を図ったのです。

そして、唐が百済を攻撃したときは、これを助けて領土の併合を助け、再興を狙った人々が日本の援軍を得て起ったときにも、白村江の戦いで唐が日本水軍を破るのを助けました。また、高句麗を唐が攻撃し併合したときもこれを助けました。

唐は百済、高句麗はもちろん、新羅まで羈縻州という一種の自治領のようにしようとしたのですが、新羅は一転して日本の任那地域への潜在主権を認める「任那の調」を上納するなど日本の支持も得て唐と対抗しました。

ところが、このころ、唐は吐蕃(チベット)との戦いで背後を脅かされていたので新羅は、唐から最低限の独立を図り、高句麗の一部と、百済の旧領を占領しました。670年のことです。そして、高句麗の遺民の一部も参加して渤海が満州北部に建国したので、唐はこれとの対抗上、新羅による領土の併合を追認し、王国としての地位も認めました。

ここに、非常に従属性の強い半独立国としての朝鮮国家が誕生したわけです。このときの占領地は、平壌の南を流れる大同江まででした。この境界を最終的になったのは、735年のことでした。

つまり、百済と高句麗を滅ぼして併合したのは、唐であって、新羅ではなく、新羅は唐から百済の旧領と高句麗の南部を強奪したというわけなのです。この経緯を無視して、新羅が日本の妨害を排除して唐の援助の元で三国統一を実現したなどと思っていると古代史は理解できないのです。

八幡和郎
イースト・プレス
2015-04-10
八幡 和郎
祥伝社
2015-11-02

編集部より;この原稿は八幡和郎氏のFacebook投稿にご本人が加筆、アゴラに寄稿いただました。心より御礼申し上げます。