日本や天皇という呼称がいつから使われたかの真実

八幡 和郎

こうした呼び方がいつ使われ始めたか、さまざまな説明がありますが、日本書紀に正式な決定をしたという記事がないので、普通に考えれば自然発生的に使われ始めたということです。

そんなはずないという人もいるでしょうが、当時の日本では漢字が十分に使いこなせていた人は少なく、ヤマト言葉による口頭でのやりとりが主だったことが鍵です。

私もこうだと自信をもって断言できませんが、仮説としては、「アメノシタシロシメスオオキミ」とか、「ヒノモト」とかいうヤマト言葉の漢語翻訳として自然発生的に使用が始まったのだろうと考えています。

そして、670年頃にはほぼ確立し、701年の大宝律令で国内的に、外交的には702年の第七次遣唐使における使用で確定したと見るべきです。

大事なことは、漢字でどう書こうが、国内的にはヤマト言葉で読まれていたことです。天皇はスメラギとかスメラミコトと読みました。アメノシタシロシメスオオキミという言い方もあり、治天大王と書かれたこともあるようですが、天皇という表記につながるイメージです。

日本は「日出ずるところの天子」というように、日が昇る方角の国という意識が形成されていたのでしょう。万葉集にも「ひのもとの大和の国の鎮(しづ)めともいます神かも」とあります。

ここでポイントになるのは、古代では日本人にせよ、半島の人々にせよ漢字の読み書き能力は低く、漢文を高度に使えたのは、帰化人など中国系の人々にほとんど限られていたことです。

聖徳太子あたりになると少し使える人が出始めますが、漢詩の作品が残っている最古の例は大友皇子(弘文天皇)のものです。

国内行政的には、ほとんど文書は用を為していなかったので、公式にどう漢字で表現するかなど決める必要もなく、万葉仮名的に使用が始まったのでしょう。

日本でなく奈良県をさすヤマトも、倭とか大養倭とか書いていたのが、ようやく奈良時代になって大和と書くことが定着しました。全国の国名も万葉仮名的表現から、713年の「諸国郡郷名著好字令」によって、イメージの良い二字で表現するようにかわりました。

無邪志、胸刺、牟射志など適当に書いていたのが、武蔵になりました。従って、武蔵という漢字からいくら考えても語源は出てきません。

中国に手紙を出しても現代の政治家がフランス語の手紙を出すときに内容を確認してないのと同じで、たとえば推古天皇が自分の手紙が漢字でどう書かれているかなど確認もしていなかったと思います。

そうして、いろいろな書き方を日本でも百済でも唐でも思い思いにしていたのが、七世紀の後半になり、日本人も漢字表記に関心が出てきて大宝律令で確定したと思います。

日本とか天皇という表現を誰が最初にしたかは知るよしもありません。日本かも唐かもしれませんし、松本徹三さんがおっしゃるように百済が先導したのかも知れません。ただ、たとえ、日本だったにしても半島だったにしても、先に書いたように高度に使いこなせたのは、漢族だけでしたから、彼らの誰かが考えたのでないかと思います。

また、天皇という名はこのころ唐の高宗が名乗った時期があり、それが「治天大王」のイメージに近いので、中国では皇帝に戻したのちも日本では使い続けたという仮説に過ぎませんがありそうな話だという気がします。

八幡 和郎
PHP研究所
2015-02-04