都知事選連載①日本で最もアメリカ大統領選に近い選挙

新田 哲史

舛添要一・東京都知事が相次ぐスキャンダルで窮地に立たされている。今後の世論次第では、2018年2月までの任期まで持つのかも微妙な情勢だ。仮に舛添氏が途中辞任すれば、2年足らずで二代続けての「異常事態」になる。

気の早い週刊誌などでは、橋下徹氏や東国原英夫氏らタレント出身政治家の名前が取りざたされているが、振り返ると、私たちはこの四半世紀、東京特有の「メディア選挙」に“翻弄”され、有権者も政党も知名度優先の余り、 “首都の顔”にふさわしい逸材を選んできたと自信を持って言えるだろうか。この連載では、都知事選の歴史を振り返りながら、オリンピックのホスト役、そして「祭り」の後に超高齢化・成熟化する東京の難題に立ち向かうリーダー選びに向けた教訓を考えてみたい、と思う。

「テレビ選挙」になる首都特有の“地政学的”事情

「都知事選は、悔しいけど新聞よりテレビの影響が大きいんだよな」。読売社会部で区政担当記者だった2007年の選挙前、ある先輩がこう漏らしたのが印象的だった。その意見に異論はない。その時点で高校生の頃から5度、都知事選をリアルタイムで見てきて、テレビでのショーアップ化を体感。実際、1995年の選挙では、タレント出身の青島幸男氏が政見放送以外に選挙運動をやらない「究極の空中戦」で当選した。連載では個別のケーススタディも検証するが、第1回は導入編として、都知事選特有の「テレビ選挙」「メディア選挙」の特徴をおさらいしたい。

なぜ、「テレビ選挙」になるのか、その構造的な要因は東京の“地政学的”な特徴にある=地図は、東京都生涯学習情報サイトより=。衆院選の小選挙区や市長選のように、選挙区内を隈なく回る戦い方を「地上戦」「どぶ板選挙」と呼ばれるが、東京全体が選挙区となると困難になる。

東京都の面積は47都道府県中45番目と狭いが、私も参院選、都知事選を選挙スタッフとして経験した際、実に「広大」に感じた。その要因は、日本の人口の1割強が狭いエリアにひしめき、投票所が2000か所、ポスター掲示板が1万5,000か所もあり、際限がない。丸の内や渋谷のような都心部や郊外の住宅地だけでなく、島嶼部から多摩の山岳地帯まで地域性も多様。とうてい「どぶ板」選挙で全てを回ることはできず、どうしても一定部分は、メディアをテコに名前や政策を流布せざるを得ない物理的な問題に直面する。

移り気な無党派層に悩む各政党

有権者「気質」の問題もある。地方の選挙であれば、郷土愛に訴えかけることが必勝の鉄則とされる。橋下氏が率いた大阪維新の会や、沖縄の翁長知事を推す「オール沖縄」等を見れば、地域ナショナリズムと結びつけて支持を掘り起こし、中央政党と互角以上の戦いを演じているのが分かるだろう。一方、東京は、近年こそ若い世代の地方出身者の割合は減少傾向ながら、選挙で多数派を占めるシニア層を中心に依然として他県からの転入者比率が国内の他地域より高い。区議選レベルはともかく、都知事選規模では、地縁を活かした選挙戦が難しくなり、有権者訴求という点でも空中戦の余地が大きくなる。

また、そうした地縁の薄さ、移り気な都民の政治意識を反映するように、支持政党別の調査では、無党派層が最多という状況が続いている。特に、1995年に前述した青島氏の特異な当選劇があってからは、どの政党も無党派層に訴求できる候補者の擁立に頭を悩ませている。

典型的なのが、2003年の都知事選の民主党。当時は選挙戦のスケジュールが4月の統一地方選期間に実施することが決まっていたにも関わらず、告示直前まで候補者を決めることができず、ワイドショーでコメンテイターに失笑されていた(その後、大学教授の女性を擁立して現職の石原氏に惨敗した)。

地方選挙なのに“朝生”で取り上げてもらえる

そして、東京の“地政学的”事情には、マスメディアの中央集権構造も含まれる。読売、朝日等すべての新聞社の本社機能があり、テレビはNHKの全国ネットワークの司令塔である放送センターが渋谷に立地。民放も全国ネットワークに多数の番組ソフトを送り出すキー局が存在する。

特に民放の場合、報道番組が都知事選を報じる時間帯が関東ローカル向けに限ったとしても、スタッフ、出演者が全国ネットと同じ場合が大半なので、番組クオリティーも全国レベルと同等になる。候補者の「地元」にテレビ局があるので番組にも呼びやすい。2014年の都知事選でテレビ朝日の「朝まで生テレビ」が、舛添要一、宇都宮健児、細川護煕、田母神俊雄、家入一真、ドクター中松の6氏を呼んで、田原総一朗氏と個別に質疑したように(本来は6候補一同で討論する予定だった)、都知事選では、報道番組やワイドショーに有力候補者を集めた討論を実施できる。

NHKの日曜討論とは違い、民放では、田原氏などの強烈なキャラクターを持った司会者からの突っ込みは容赦ない。討論も白熱し、その結果、視聴者からすれば、アメリカの大統領選を彷彿させるような、「テレビ討論」を通じて候補者を選ぶような感覚を得やすいと言える。

一方で、テレビの制作者は、俗に「画(え)が無い」取材対象を積極的には取り上げない気質がある。裏を返せば、政党や候補者サイドに「画づくり」を意識したマーケティング戦術があり、パフォーマンスを繰り広げたことで、それを面白がったメディア側が取り上げ、やがてドラマ性も加味されるサイクルが生まれてきたと考える。

過度にドラマ性を求めてきた四半世紀

実際、80年代以降、政治ネタで数字を取れる報道番組が続々と誕生し、国政では小泉政権の郵政選挙のように、政治とテレビの相関関係で注目すべき事象も目立ってきた。この間、都知事選も地方首長選でありながら、首都特有のメディア事情を背景に、有権者はもちろん、候補者選びに苦慮する政党すらも翻弄されてきた側面もあったのではないだろうか。

もちろん、テレビを中心にしたメディア側が有権者に政治や選挙をわかりやすく取り上げる意義はある。高度成長期には7割に達したこともある都知事選の投票率は80年代になると5割を超えるのがやっとという状況が続いており、政治への関心を高める効果という点では期待できる。

しかし、テレビを作る側も見る側も、過度にドラマ性を求めすぎると、社会的な危険がないとは言えない。ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』で「政治とジャーナリズム、メディアが一体となってナチスまでいってしまう」と書き置いた言葉を引用するのは大げさかもしれないが、地方自治で極めて密接な福祉、社会保障のような「地味だけど重要」な政策について、十分に考え、議論できなくなる恐れがある。

都知事選が「劇場型政治」に舵を切ったのはいつだろうか。まだ四十路に入ったばかりの若輩の私がリアルタイムで観てきた事例なので、先輩方から異論もあるかもしれないが、アゴラの若い読者のためにも敢えて取り上げてみよう。私なりに考える最初のターニングポイントはバブル時代の世相が色濃く残る、あの年。永田町の怪物ともいえる男がそれまでの都知事選の「予定調和」を壊したことにさかのぼる。

(第2回に続く)

【参考文献】

佐々木 信夫
中央公論新社
2011-01

 

西田 亮介
KADOKAWA/角川書店
2015-10-24