オバマ大統領は27日午後(日本時間)、米大統領として初めて被爆地広島の平和記念公園を訪問し、安倍晋三首相と共に原爆資料館を見学した後、原爆死没者慰霊碑に献花した。
第2次世界大戦時に大量破壊兵器の原爆を世界で初めて投じた国の最高指導者として被爆地広島を訪ねたという事実は大きな意味をもつ。オバマ大統領は2009年4月、チェコの首都プラハで核フリーの世界実現を訴え、同年10月、ノーベル平和賞を受賞している。
オバマ氏は被爆者の慰霊碑の前で祈った。被爆者への慰霊であると共に、「第2次世界大戦中に命を落としたすべての人々を忘れない」と追悼する瞬間だったという。日本人の一人として、広島訪問を決定したオバマ大統領に改めて感謝したい。
平和は祈りやアピールだけでは実現できないことは知っているが、「平和の祈り」がなくして、やはり平和は実現できないこともまた事実だ。平和への痛切な願いがあってこそ、その夢は近づいてくる。願いのないところに世界の平和はあり得ない。
オバマ大統領の広島訪問2日前、フランシスコ法王は25日、一般謁見の場で、「祈りは魔法の杖ではない。神は子供たちの祈りを、彼らが願う時、願うやり方で常に応じるということはない。祈りは神への信仰が難しい時、助けとなる」(バチカン放送独語電子版)と語った。
同時に、法王は祈りが即聞かれない例としてイエスが十字架刑に処される前夜祈った“ゲッセマネの祈り”を挙げている。イエスは、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯(十字架の道)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(「マタイによる福音書」26章)と祈っている。
しかし、イエスの祈りが無駄でなかったことは、歴史が物語っている。33歳という短い生涯、実質3年間の歩みが世界の歴史に大きな影響力を与えてきたことは間違いないからだ。イエスの祈りは聞かれたわけだ。
私たちは、クリックすれば、探している情報を即得られるインターネット時代に生きているが、フランシスコ法王は「祈りは魔法の杖ではない」として、祈りが実現するまで一定の時間を経過せざるを得ないケースがあると示唆している。だから、私たちは平和のために倦むことなく祈り続けなければならないわけだ。その意味で、オバマ大統領の広島での慰霊は「平和の祈り」の継承だったといえる。
なお、任期末のオバマ大統領に願うテーマではないかもしれないが、米国が包括的核実験禁止条約(CTBT)を批准することを願う。
アッシジの聖フランチェスコの「平和の祈り」の一部を紹介する。当方がまだ日本に住んでいた20代の時、よく歌った歌詞だ。
主よ、私を平和の器とならせてください
憎しみがあるところに愛を
争いがあるところに許しを
分裂があるところに一致を
疑いのあるところに信仰を
誤りがあるところに真理を
絶望があるところに希望を
闇あるところに光を
悲しみのあるところに喜びを
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください
理解されるよりも理解する者に
愛されるよりも愛する者に
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年5月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。