都知事が辞任に至るまでいろいろとあった。例によって周回遅れの感想だが、国際政治ならびに近世近代史に通じているはずの舛添要一氏らしからぬ退却戦だった。
政治学と軍事学とは別物だとはいえ、言いわけの逐次投入と、包囲が狭まりつつある中での挑発や威嚇は、兵法からしてかなりまずかったのではあるまいか。
ところでこのゲーム? 最初のうちは、野党が知事を叩き、与党もそれなりに叩きつつも、落し所として、どうやって知事を延命させるのかというルールだったように思う。それがある瞬間から、与党野党入り乱れての落武者狩りになってしまった。
「知事を庇いぬいた者」が優勝のはずが、一転して「首を挙げたもの」が表彰台となったわけで、結局、抜駆けの公明党が一等賞、後詰めで解散を防いだ自民党が技能賞だったらしいが、さて、じゃあ勝者が前知事にとって代わって主導権を握るかというと、そういう筋書きにはなっていない。
『朝まで生テレビ』で売り出していたころの壮年の舛添要一氏だったら、第三者として、
「だったらお前が代わりにやってみろってことですよ!」
と、あの口ぶりで切り捨てていたにちがいない状況である。知事選への立候補を擬せられる者の中に、与党の都議は一人もいないようである。もし今度の選挙で、非自公の知事が当選したら、彼等はいったいどんな顔をするつもりなのだろうか。
以上がこのおななしの長いマクラ。東京のケースはひとまずここまでで、ここからは日本の首長選挙に関しての一般論。
多くの場合、政令市の市議や県議府議などは、市長選や知事選には立候補しないし、したがらない。そういった市議や県議は、国政選挙にはけっこう挑戦するし、当選もするのに、しかし首長選にはなかなか立候補しない。それを望まれることも多いだろうに、この現象は何故なのか。おおまかにいって二つの理由があるように思う。
まず地方議会の選挙区が、かなり小さく区切られているということ。端的にいって、彼等の多くは、地盤の専門家であって政策通ではない。その一方で一度地盤に精通してしまうと、再選はかなり楽になる。もし野心(向上心ともいうけれども)がある者ならば、その地盤をそのまま活かして国政に打って出る。しかし市長選挙は本来の選挙区とは較べものにならないほど広い。知事選なんてもってのほかだ。
一般の市長村の場合は、大選挙区であるわけだが、それでも地盤に特化して、特定の地域の票を集める者が優位だ。議員によっては、その地域に詳しいとさえも言えず、自分に票をくれるものだけに詳しいといった状態になっているものと思われる。
彼等の多くは地方議員であることに満足してしまう。したがってさらに脱政策に磨きがかかる。階層社会学でいう「終着駅症候群」である。※1
そしてもうひとつ自動失職の問題がある。
議員は他の選挙に立候補すると失職してしまう。
昨年行われた大阪市長選の場合、自民党から市議のエースが立候補した。おおさか維新と舌鋒を交わした市議だったが、地位を捨てての立候補である。結局この選挙はおおさか維新の新人の勝ち。市議は退場した。維新が勝って自民が負けたようにも見えるが、大阪市全体からみればこれはまるごとの損失だったのではあるまいか。
議員がその居所の自治体の首長選に立候補した場合は、選挙が済むまで失職を免除してやることはできないものか。わたしはいつもそう思う。
たとえば京都市の市議が京都市長選や京都府知事選に立候補する場合、また都議や区議が都知事選に立候補する場合などである。もしめでたく当選した場合には、市議なり府議なり区議なり都議を失職させればよい。
残念ながら落選した場合には、そのまま議会にとどまり、ふたたび首長のよき論敵となればよい。
老舗政党所属の地方議員にすれば、そのままずっと居座れれば至極快適。そしてもちろん兼職も可。次の選挙で落ちることは論外だし、そうなったら瞬時にして破滅だが、上を目指すのはいたって難儀でしんどい。そんなことは考えたくもない。
おおよそはだいたいこんなもので、本人がよほどしっかりしていないと、ぬるま湯の中で能力がどんどん退化しかねない現況である。一方で首長は、予算編成権はほぼ丸ごと、人事権のほとんど、議会が叛いた場合は解散権、と権力が強すぎる。地方議員のほとんどは、首長のおこぼれ頂戴といった風情である。なんと情けないことか。
ところで今回の東京都のような場合だが、こういった場合こそ、せめて知事の残りの任期、議会議員の互選で知事補でも任命できないものだろうか。こんなひと工夫があってもよいはずだ。しかしともかく現在の自治体の選挙制度は不便である。
※1 もったいをつけて階層社会学といったが、そんな複雑なことではなく、いわゆる「ピーターの法則」のこと。
2016/06/25
若井 朝彦(書籍編集)