僕がたいへん信頼していた人物で、高坂正堯さんという国際政治学者がいた。僕が司会をつとめていた報道・政治討論番組「サンデープロジェクト」や「朝まで生テレビ!」にも、しばしば出ていただいた。
その高坂さんが63歳という若さで亡くなったとき、彼のあとを継ぐ学者を探さなければならなかった。そんなときに白羽の矢がたったのが舛添さんだった。高坂さんのようなリベラル派ではなく、まったく違うタイプだが、魅力的な若手学者だった。国際政治に詳しく、世論に迎合せず、発言もはっきりとして歯切れがいい。「これはテレビでも受けるだろう」、と彼に会ってすぐに僕は直感した。
実際、舛添さんは「朝まで生テレビ!」に出演すると、大島渚さん、野坂昭如さん、小田実さんなどの手強いベテラン出演者たちにひるむことなく、論戦を繰り広げた。
当時の知識人は、「日本がいかにダメか」と、日本の弱点を語る人ばかりだった。そのようななかで、舛添さんは日本のよさを論理的に語った。だから、彼はまたたくまにメディアの売れっ子となったのだろう。
人気者になった舛添さんは、政治を語るだけではなかった。政治の世界に入ったのだ。語る側から、政治をおこなう側になった。天下を取りたい、と思ったのかもしれない。
彼は自民党から出馬し、国会議員となり、厚生労働大臣を務める。第一次安倍内閣では、改正憲法草案の作成にも参加した。自民党の中心人物の一人だったといえよう。
ところが、2009年に自民党が野に下ったころから、執行部への批判を繰り返すようになる。そして、ついに2010年4月に離党。これは、舛添さんが「自信過剰」のあまり、「そそっかしさ」が出たのだと僕は思っている。戦略がないのに離党したのだ。だから、新党を結成したものの挫折している。
ところが、猪瀬直樹さんが東京都知事を辞任すると、裏切られた格好の自民党が、舛添さんに声をかけたのである。彼は立候補して、見事に当選する。そして知事の職を順調に務めていたはずだった。だが、そんな順風満帆なとき、今回の政治資金問題が起きたのだ。
この問題にもまた、舛添さんの「自信過剰」ゆえの「そそっかしさ」が出たのだと僕は思う。公私混同だと批判されたけれど、政治資金規制法には違反していない。これなら追及はかわせるはずだ……。そういう「自信」があったのだろう。
だが、現実は思うようにいかなかった。彼が説明すればするほど、「弁解のための弁解」にしか聞こえない。その苦し気な表情が、刻々とテレビに映し出されただけだった。
世論は彼の弁明をまったく受け入れなかった。当初、舛添さんを支えようとした自民党も、このままでは参議員選挙に悪影響が出ると判断するようになる。そして、バッサリと切り捨てたのだ。
舛添さんは、さぞかし忸怩たる思いを抱いたことだろう。一方、舛添さんを切り捨てた自民党も、次の候補者選びに苦労するだろう。自民党が独自の候補を立てられるかどうか、微妙なところだ。
それにしても、と僕は思う。舛添さんは、かつて、テレビというメディアを足場に、颯爽と世の中に躍り出た。そして、いま彼は、テレビというメディアの力によって失脚したと言っていいだろう。皮肉なものだ。彼の出発点を知るものとしては、なんともいえない気持ちになるのである。
編集部より:このブログは「田原総一朗 公式ブログ」2016年6月27日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた田原氏、田原事務所に心より感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「田原総一朗 公式ブログ」をご覧ください。