『シン・ゴジラ』と8月15日―日米関係の未来を見る

梶井 彩子

『シン・ゴジラ』が描く日米関係

今年も8月15日がやってくる。

この日を迎えるにあたって、今年はぜひ『シン・ゴジラ』の観賞を提案したい。(※未観賞の方はネタバレにご注意ください)。

『シン・ゴジラ』は特撮娯楽映画であることがなによりも第一の魅力だが、多くの要素を凝縮し、「ゴジラという虚構と相対する現実」を描き出した映画であるため、ネット上にもさまざまな切り口からの考察や感想が提示されている。もちろんそれは、制作陣の意図を全く超えて、それぞれが受け取った「超個人的」感想である場合も多いだろう。

その中で、無粋であることを承知の上で私にとっての「超個人的感想」を言えば、『シン・ゴジラ』は対米関係において非常に重要な示唆を与えられる映画だった。

いわば、「超・我田引水的」感想なので、これによって作品そのものの価値を判断しないでほしいと切に願いつつこの映画が大好きだからです!!)、その示唆する(と私が勝手に受け取った)ところを書いてみたい。

果たして自衛隊だけでゴジラという未曽有の脅威を排除できるのかというその時、映画の中の防衛大臣が「日本がやる気を見せなければ、米軍は手を貸さない」と述べるシーン。

自衛隊によるゴジラ排除作戦が失敗し、米軍の攻撃がゴジラに効いたかに思えた時、「さすが米軍だ」と口にする内閣首脳に対し、視線を向ける防衛大臣の表情。

米軍の攻撃に反応し、放射能を噴射した後、火を吐いて都内を焼き尽くすゴジラ。

核攻撃によってゴジラを殲滅するとし、東京のど真ん中に核を投下することを決める国連安保理と、その選択に怒りをあらわにする都の職員や巨災対のメンバーたち。

総理大臣と若手議員の「アメリカの覇道と日本の王道」のやり取り。

何とか核攻撃前に日本の力で対処しようとする巨災対メンバーと、核攻撃までの時間を延長するために、必殺「お辞儀」を発動する総理大臣。

そして、祖母が受けた原爆という運命を背負いながら、アメリカ特使として登場する日系アメリカ人女性・カヨコの存在。

彼女が言う「日本は愛されている。(ゴジラ攻撃に)協力したいという米兵の志願者が殺到している」というセリフのくだり。

監督をはじめ制作陣の意図が那辺にあるかとは全く無関係に(おそらく「現実」を描いただけだ)、その一つ一つが対米関係の在り方、もっと言えば国際社会での日本の役割とは何かを問われていると私には感じられたのだ。

――ほんの70年前に、ゴジラ以上の災禍を日本にもたらし、原爆を投下し、東京その他の都市を焼き尽くした当時のアメリカのやり方に怒りを覚え、決して心からの赦しを与えることはないながらも、現在のアメリカとは協力して危機に対処しなければならないのが今の日本なのだ。

その悲哀と現実。だがそれだけではない。「しなければならない」とすると否定的なニュアンスを含むが、これも必ずしもそうではない。

「王道」と「覇道」

その意を強くしたのが、若手政治家と臨時の内閣総理大臣が交わす「覇道と王道」のくだりだ。

現実に目を向けてみれば、アメリカの、個別の事象を無視して事態の解決を行おうとするブルドーザーのようなまさに覇道そのもののやり方が、世界各地で反米思想や、おそらくテロリストをも生んできた。欧米が「王道」と思い「白人の責務」だと進めてきたことが、他の人々からすれば行き過ぎた余計なお世話だったということだ。

これについて、日本は他人事だという顔をしてはいられない。ブッシュ大統領は07年、戦前の日本とアルカイダを同列に論じ、「狂信的な神道国家で、自爆攻撃を繰り返してきた日本でさえ、アメリカは民主国家に変身させることができた。だからイラクでもうまくいくだろう。民主的な日本はアメリカの最も強力な同盟国になった」という趣旨のことを述べた。

つまり日本での成功体験が、アメリカの中東におけるブルドーザーのような民主化政策を後押してきたフシがあるのだ。日本人として、このことをどう受け止めるのか。アメリカの中東政策の失敗はもちろん第一にアメリカに責任があるが、日本人はこれを聞いても無関係だと言えるか。

日本は戦後、同盟国として米軍からある部分では恩恵を受けながら、国際社会に対して果たしている義務はまだまだ少ない。それは単に自衛隊を海外に派遣するということではない。「王道の政治」を日本自身が実行し、また国際社会に対してその価値を訴えていかなければならないにもかかわらず、アピールが足りないのだ。

しかし、小国でなんの力も持たなければ、どんなにいいことを言っても説得力がない。また、国際社会の安寧のために一定の武力(つまり覇)も必要だ。そこで日米が表裏の関係になり(まさに、ヤシオリ作戦成功後のシーンが、ハリウッド映画における「危機回避成功シーン」の歓声込みの盛り上がりと全く対照的であったように)、互いに補完し合いながら、国際社会に対して役割を果たしていかなければならないと考えるのである(すでに自衛隊の「日本的『軍隊』の在り方」が米軍をはじめ各国の軍に影響を与え始めているという指摘もある)。

それはアメリカと一体になることでは全くない。アメリカ嫌いで安保法制に反対した人にこそ提案したいのだ。「ならばアメリカから離れて、彼らの『覇道』をそのままにしておくのか」と。

もちろんアメリカの国力は衰退しており、「覇道」を貫ける状況ではなくなってくる。その時、突出してくるのが中国という「覇道」の国だ。今、アメリカのやり方に異を唱えている人こそ、中国にも異を唱えなければならない。すでに中国は以前の「被害者としての後進国」ではなくなったのだ。これからは中国に王道を説くことも、日本の大きな役目になるはずだ(中国が平和的大国化を目指そうとして失敗し、覇道に走り出した経緯はE・ルトワックの『チャイナ4.0』に詳しい)。

『シン・ゴジラ』に描かれているように、確かに日本政府、自衛隊にできることは限られている。アメリカに対する消化し切れない複雑な思いも背負っている。しかしだからこそ、その恩讐を超えて新たに世界に生じる危機に対処する姿が、他国民に与える影響もあるはずだ。

だがそれは、「対米従属」であってはいけない。『シン・ゴジラ』で描いて見せたように、日本人自身が取るべきだと判断した行動に、アメリカを付きあわせるだけの主体性を持たなければならない。

『シン・ゴジラ』とオバマ広島訪問

アメリカに対して怒りはある。しかし、それをも飲み込んで日本は前に進んでいく。アメリカに対する、そしてアジアに対する複雑な思いを抱きながら、71年前の8月15日をもって敗戦国となった日本はそれでも戦後秩序の構築に尽力してきた。そしてこれからもそうしていくだろう。

『シン・ゴジラ』が、オバマ大統領の広島訪問と同じ年に公開されたことさえも、勝手に因縁めいたものを感じてしまう(余談だがオバマ大統領の広島訪問も、カヨコと同じ日系3世のマーク・タカノ米下院議員の尽力が大きかったという)。反米でも従米でもない、これからの日本の在り方を考えるべき時期が来ているのだ、と。

「なぜ日本人は、自分たちに原爆を落としたような国の人間と仲良くやっているのか」という問いに、日本人は主体的に答えなければならない。『シン・ゴジラ』が描いた「現実」から、私自身が(あくまでも勝手に)受け取った課題である。