ここ数年でしょうか、いろいろなところでラッピングバスやラッピング電車というのを見るようになりました。そのほとんどがアニメやマンガのキャラクターが多いように思います。少なくとも、ドラマとか俳優・女優のものはほとんど関西では見ません。
私が中学生くらいの頃は、こういったアニメやマンガなどはオタク文化として毛嫌いされる傾向にありました。今ではこういった公共交通機関がラッピングして街なかを走らせるなど、かなり市民権を得てきたのではないでしょうか。
一昔前には「ダサい」と言われていたことが、今では当たり前のこととなり、多くのファンや楽しむ人が生まれてきています。
ダサくないように周りについていった学生時代
学生時代、私も普通の少年だったと思うのですが、「ダサい」というのは避けるべき状況でした。周りから「ダサい」と言われることは恥ずかしく、そして周りから距離を置かれるようなことでもあったのです。興味のあるなしかかわらず、ダサいと言われないように頑張って努力をしていたのを思い出します。
雑誌だったらスマートやカジカジを読んでファッションを勉強したり、音楽だったらカウントダウンTVやロッキンオンジャパンを見て勉強するなど、かなり頑張っていたように思います。また、ちょうど日本代表のサッカーが流行し始めたこともあり、サッカーを知る・できるようになろうと努力していました。
これらはすべてダサくならないためにしていたことです。当時はそれが当たり前だと思っていて、周りに合わせて同じ音楽を聞く、最新のファッションや髪型を勉強するなど、ダサくならないように頑張っていました。
何歳まで「ダサい」が行動基準なの?
もう私も30代を過ぎていますので、さすがにそういう周りに必死に合わせてということはしていませんが、今でもまだ「~~はダサい」という30代40代の人たちがイます。ネットでも「~~男子はダサい」というような言い方をインフルエンサーの方々がTwitterで発信していたりします。
これが私には非常に不思議に思います。10代であればともかく、30代40代のインフルエンサーである方々が「~~はダサい」というようなことを今でも言っているのです。言ってはいけないわけではないですが、30代40代にまでなって「ダサいかダサくないか」を基準に行動を決めていると思うと、すごく窮屈な気がします。
例えば「鉄道ファンってダサいよね」とか「アニメオタクってダサいよね」とか「iPhoneはかっこいいけどAndroidはダサいよね」とか、そういう価値基準で未だに動いている人がいるのです。少なくとも最近では昔はダサいとされていたアニメやゲーム、マンガが市民権を得て堂々と街中に存在することを考えると、ダサい・ダサくないという価値基準こそがダサいのではないかと思います。
多様性を認めるいい時代になった
逆に言えば、今でもそういったダサい・ダサくないという価値基準で動いている人は一定数いるものの、世間一般としてはどういったものでも認める方向に進んでいるのではないでしょうか。アニメだってマンガだって、私の好きなプロレスもそうです。別にその趣味に「ダっさ!」という人は少なくなり「いいんじゃない?」と認める方向に進んでいるように思います。
今まで、横並びでいた趣味についても、いろんな趣味や変わった価値観を持っても多くの人が認める時代になりました。多くの人が様々な人の趣味や価値観を認めるというのはすごく生きやすい社会なのではないでしょうか。逆に今までのダサい・ダサくないで動いていた時代というのは、すごく生きづらい時代だったのではないかとも思います。
LGBTについても昔だったらここまで多様性を認められていなかったでしょう。女性が就職すること、子供を産まない選択をすること、男性が就職せずフリーランスになること、いずれも昔は「変わっている」と言われたことが、今は多様性を認める時代になりました。
今もまだSNSで「~はダサい」とか言っている人、それってダサい行為じゃないですか?