人はなぜ「寛容」でありたいのか

欧米社会では同性愛を含むLGBTを擁護する人々が増えてきている。それを社会の多様性の現れと誤解する人々も出てきた。その多様性を支えているのはあの魔法の言葉「寛容」だ。誰もが他者に対して寛容でありたいと願うので、性的少数派に対しても寛容でありたいと考える。それでは現代人は本当に「寛容」になってきたのだろうか。

▲現代の代表的思想家・ジグムントバウマン氏(ウィキぺディアから)

修道女、マザー・テレサが先日、バチカンで列聖された。テレサは生前、「愛の反対は憎悪ではありません。無関心です」と述べているが、現代の代表的思想家の一人、ポーランド出身の社会学者で英リーズ大学、ワルシャワ大学の名誉教授、ジグムント・バウマン(Zygmunt Bauman)氏は、「寛容は無関心の別の表現の場合が多い。自分に直接関係ない限り、どうぞご自由に、といった姿勢が隠れている」と指摘し、現代人の「寛容」には無関心さが潜んでいると喝破しているのだ(バウマン教授は独週刊誌シュピーゲルとのインタビューの中で答えている)。

同性愛を含むLGBTを支援する人々には性的少数派への理解というより、“自分に直接影響がない限り、どうぞお好きなように”といった無関心が潜んでいることも少なくない。同時に、「寛容」を叫ぶ人々には自分の弱さも認めてほしいという願望が潜んでいるようにも見えるのだ。「寛容」という言葉が醸し出す美しい誤解に気をつけなければならない。

バウマン教授は、「リベラルな社会では個人の利益が最優先され、人間の相互援助の精神は次第に失われていった。社会的連帯は個人の自己責任に代わり、人間同士の繋がりは失われていく」という。現代人が自己のアイデンテイテイに拘るのは共同体意識が失われた結果、というわけだ。

そのうえで、「われわれが願うか否かに関係なく、われわれは既に様々な民族が入り乱れ、互いに依存するコスモポリタン的な状況の中に生きているし、それはもはや回避できない。われわれに欠けているのはコスモポリタン的意識だ。グローバルな相互依存社会を構築していかなければならないのだ」と主張する。すなわち、社会の多様性を支えるべき思想が欠如しているというのだ。

もちろん、「多様性」と「寛容」という言葉はコスモポリタン的意識から登場してきた結果とも主張できるが、バウマン教授はその「寛容」の背後に無関心さを見出している。「寛容」という言葉が席巻する一方、「社会の連帯感」の欠如はそのことを裏付けているわけだ。「連帯感」が伴わない「寛容」は無関心に過ぎないという論理だ。

多くの現代人にとって同性愛やLGBTも自分に悪影響を及ぼさない限り、どうでもいいことだ。しかし、「多様性」と「寛容」が時代の用語となっている今日、表立って異をとなえれば、「寛容」のない人というレッテルを張られてしまう。その一方、同性愛やLGBTは間違っていると信じている人が現れれば、それに反論することで「寛容の実証」を強いられることになるわけだ。

英国の数学者で人工知能の父といわれるアラン・チューリング(1912~54年)やアイルランド出身の英国劇作家オスカー・ワイルド(1854~1900年)は同性愛者として苦労の人生を歩んだ。ワイルドは同性愛者として牢獄生活を味わっている。同性愛者への社会的差別が激しかった時代だ。性的少数派への過剰な差別は撤廃すべきだ(「ワイルドもチューリングも悩んだ」2016年6月22日参考)。

しかし、問題は残っている。同性愛を含むLGBTの愛の形態が人間を幸せにするか、というテーマだ。同性愛、LGBT問題は本来、社会問題でも政治問題でもない。人間の在り方を問いかけているように思えるのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年9月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。