ナマケモノが問う「勤勉とはなにか」

ナマケモノと呼ばれる動物がいる。哺乳綱異節上目有毛目ナマケモノ亜目の総称。ミユビナマケモノ科とフタユビナマケモノ科が現生しているという。中南米に生息し、24時間のほとんどを樹にぶら下がって過ごす。生涯、樹にぶら下がって生きていることから、怠け者という不名誉な名称がつけられた。ナマケモノの写真を見て、「神はなぜナマケモノを創造したのだろうか」「ナマケモノの創造目的は」と考えてしまった。

▲樹にぶら下がるナマケモノ(ウィキぺディアから)

ところで、怠ける、怠慢の反対語は勤勉だ。現在の資本主義社会では勤勉は称賛される一方、怠け者は益々日陰の生活を余儀なくされている。勤勉は尊ばれ、怠けものは追放される運命を余儀なくされている。

しかし、勤勉礼賛、怠慢嫌悪は昔からあったわけではない。独週刊誌シュピーゲルによると、ドイツの著作家ハンス・アルベルト・ヴルフ氏は最近、「怠慢、資本主義労働社会での長い行進」というタイトルの本を出し、怠慢に関する過去2000年間の歴史を振り返っている。同氏によると、怠慢が評価され、勤勉(労働)が侮られた時代もあった。古代社会では、自由な人間にとって、労働は恥じるべきことだった。奴隷、賃金労働は俗物がする業と受け取られていた。すなわち、社会のエリートは全て怠け者で占められていた時代だった。

時代が変わり、怠慢が批判され、勤勉が求められる時代圏に移行していく。ヴルフ氏によると、人類の歴史は怠慢から勤勉に移行してきたという。換言すれば、「怠慢への戦いこそ文明プロセスだった」というわけだ。

怠け者が自由な人間の勲章だった時代は去り、資本主義社会では怠慢は怠け者と揶揄される。これは必然的な文明プロセスだったわけだ。多分、人工知能(AI)が発展して、人間が労働する必要がなくなるまで、怠慢は批判され、勤勉な人生が称賛される社会が続くだろう。

ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864~1920年)は著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、労働と禁欲を称賛した。ベンジャミン・フランクリンは「時は金だ」と主張し、怠慢な生活をしている人々を冷笑した。“小人閉居して不善をなす”といったことわざもあるように、安逸な生活を過ごす怠慢な人生に対して、社会は総攻撃をかけてきた。
もちろん、勤勉の勧めはプロテスタンティズムだけではなく、カトリック教会にも既に労働倫理があり、古代キリスト教神学者アウグスティヌスは怠慢な修道士を叱咤していたという。

旧約聖書の創世記には人類始祖アダムとエバの物語が記述されている。彼らが「取って食べてはならない」という神の戒めを破った結果、「エデンの園」から追放された。その結果、「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」(創世記3章17節)運命を余儀なくされた。「失楽園」とは、汗をかく労働の時代の到来を意味していた。
なお、欧州の高度社会福祉国家では、国家からさまざまな経済支援、援助金を受けて生きていく“新しい怠け者”が生まれてきている。

ナマケモノの話に戻る。
アイルランド出身の劇作家オスカー・ワイルドは、「何もしないことは、この世で一番難しい。また、一番知的なことだ」と述べている。ナマケモノはひょっとしたら一番難しい仕事を我々の目の前で披露してくれているのかもしれない。とすれば、ナマケモノは案外、知的な存在だ。ナマケモノは“勤勉と何か”をわれわれに問いかけているからだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年10月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。