脱落した赤穂浪士や踏み絵に見る弱者⁉︎

今日12月14日は、赤穂浪士が吉良上野介邸に討ち入りをした日です。

そもそも、赤穂浪士が、浅野内匠頭に一方的に切りつけられた吉良上野介に対して復讐をすることの是非については争いがあります。沙汰を下したのは将軍なので、不公平な沙汰に対する不満は将軍にぶつけるべきだという見解です。「訴訟で不当な判決が下ったからと言って訴訟の相手方を恨むのは筋違い、恨むなら不当な判決を下した裁判官だろう」という発想です。

この点については、当時の封建社会の頂点が将軍であったことから、君主に対する忠義を果たすために、(更に上の君主である)将軍に対する忠義を裏切ることはできないという思想的事情があったのかもしれません。詳しくは知りませんが…。

その点はさておいて、赤穂浪士の中で復讐を誓ったのは130人でありました。ご存知のように実際に討ち入ったのは47人なので、半分以上が脱落したことになります。脱落した面々は、卑怯者扱いをされたりしてずいぶん苦しい思いをしたそうです。中には自殺した人もいたとのこと。

これら脱落者のことを考えていたら、ふとキリシタン弾圧時代の踏み絵のことを思い出しました。踏み絵を踏めずに死刑になった人が多かったことを考えると、当時のキリシタンの信仰心の強さがうかがえます。命をかけて信仰に殉じる覚悟を持った人達がほとんどだったのでありましょう。

私は、討ち入りから脱落した赤穂浪士と、(信仰に反して)踏み絵を踏んでしまったキリシタンには共通のものがあると思っています。

死という処罰覚悟で討ち入りに参加した浪士と踏み絵を踏まなかったキリシタンは、「信念を命がけで通した強い人たち」なのです。自分自身をあっぱれと思う気持すらあったはずです。

脱落した浪士や踏み絵を踏んだキリシタンは「弱い人たち」です。おそらく、私たちの多くも彼らと同じ弱者でしょう。

しかし、弱者は弱者なりに悩み抜きます。心の唯一の支えであった信念や信仰を貫けなかったことを自責し、後悔の念に苛まれ、自ら命を絶った人もいました。彼らの苦しみは、もしかしたら信念を貫いて命を落とした強者たちよりも辛いものであったかもしれません。

ちなみに、キリスト教が世界中に普及したのは、イエスが常に「弱者」に寄り添っていたからだと私は考えています。病人、罪人、姦通を犯した者、戒律を破った者、ローマ帝国の手先として蔑まれていた徴税人…。彼ら彼女らに寄り添い「許し」を与えたからこそ、イエスの思想が世界中に波及したのではないでしょうか?

現代社会に住む私たちも、赤穂浪士やキリシタンと同じように、苦しみ悩むことが多々あります。会社や仕事のために命をかけることの出来る強者もいれば、それができない弱者はたくさんいるのです。

会社や仕事に全身全霊で尽くすということが最大の美徳であり崇高な理念となっている社会では、それに逆らう転退職者、役に立たずにリストラにあった人たち、組織の正式な一員として認められず表舞台に立てない非正規社員の人たち…等々、強者になれない弱者がたくさんいます。

往々にして世間は、そういう弱者に対して冷たい目を向けます。昔、私が長銀から野村投信に転職する際、説得不可能と悟った人事部担当者から「お前は一生世間のはぐれものになるんだ!」と恫喝されました。転職を会社に対する裏切りと考える人が少なくなかった時代でした。

脱落した赤穂浪士や踏み絵を踏んだキリシタンのことを現代の私たちが振り返ると、「弱者のままでいいんだよ。自分を責めることは決してない。誰に何を言われようが、家族や仲間と一緒に慎ましく生きていけばいいじゃないか」という言葉をかけてあげたいと思いませんか?

そういう気持を持っていながら、現代社会の中で自責の念や後悔の念に苛まれている人が案外少なくないのではないでしょうか?

もし、あなたが現代社会の弱者で、「こんな思いをするのならいっそ死んだほうがマシだ」と思っていたとしたら、過去の脱落した赤穂浪や踏み絵を踏まなかったキリシタンに思いを馳せてみましょう。

きっと、未来の人たちはあなたに対して、「弱者のままでいいんだよ。自分を責めることは決してない。誰に何を言われようが、家族や仲間と一緒に慎ましく生きていけばいいじゃないか」と思ってくれるはずです。

信念を貫くことができなくても、人生は決して捨てたものではありません。その信念は他人から与えられたものかもしれませんし、仮に自分自身の信念であったとしても(改めて)新しい考えを抱くことは決して悪いことではありません。

「自分の人生は社会や他人の価値観では決して決めることはできない」
この言葉を、常に頭の中に叩き込んでおいて下さいね。

荘司雅彦
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2014-08-26

 


編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2016年12月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。