電通を呪縛する「空気」の正体

池田 信夫

電通の石井社長が辞任を表明した。いうまでもなく過労自殺事件が書類送検された責任をとったものだが、過労自殺は労災認定されただけで毎年200人いる。この程度の長時間労働は、マスコミにも霞ヶ関にもあるので、原因は長時間労働だけではない。それを役所が規制しても、日本の会社の「空気」が変わらない限り、サービス残業はなくならない。

「空気」の本質を山本七平は「一つの宗教的絶対性をもち、われわれがそれに抵抗できない”何か”」だとし、その実体を「アニミズム」だと述べたが、これはおかしい。空気の実体はどこにもなく、しいていえば人々の脳内にあるのだ。

このようにすべての人々に共有される情報を共有知識と呼ぶ。ゲーム理論でいうと、すべての人々が同じことを知っているだけではナッシュ均衡は成り立たない。すべての人が同じことを知っていることを知っている…という無限階の知識が必要だ。

たとえば会社に入ったら定年まで勤めることを誰もが知っていて、それを上司も部下も知っている場合には、命令しなくても部下は残業する。共有知識の成立しない契約社員は、明け方まで残業したりしない。上司と部下の間には暗黙の了解がないので、すべて命令しないと動かないし、勤務時間が終わったら仕事が残っていても帰宅する。

一時期まで日本の製造業が高い効率を誇っていたのは濃密な共有知識のおかげだが、広告代理店や金融などのサービス業には向いていない。だから電通で社員が夜遅くまで残業して共有している知識は、ほとんど無駄である。それは彼らを会社にしばりつけ、転職のオプションを奪っているだけだ。

これを次のようなゲームで考えてみよう。図の数字は自社のペイオフで、対称とする。ここでD型は電通のような(ドメスティックな)労使関係、G型はグーグルのような(グローバルな)労使関係とする。グーグル(Alphabet)の時価総額は電通の50倍だが、5倍としよう。

自社も他社もD型だとペイオフは1(左上)だが、自社だけG型をとると左下の0になり、これは左上より悪い。ナッシュ均衡(部分最適)は左上と右下の2つあるが、全体最適は明らかに右下の両社ともG型にする均衡だ(ペイオフは5)。

ところが電通が左上の部分最適(どっちもD型)から出発した場合には、全体最適には移行できない。それは自分だけ変えても利益にならないというペイオフが共有知識になっているからだ。電通が自社だけG型に移行しても他社がD型のままだと、労働者は雇用の不安定なG型を選ばないだろう。いい人材が雇えなくなって、電通のペイオフは左下の0になる。

全員が一挙にG型に変えると雇用が流動化し、生産性が上がってペイオフが5になるが、自社だけ変えると左下の0になるので、現状維持(左上)がナッシュ均衡になる。これは2人だけのゲームだと直観に反するが、会社が1万社あると、自社だけG型にしても他社が追随することは考えられない。人々が濃密な共有知識をもっていると、全体最適に移行することはできないのだ。

だが、これが進化ゲームだとすると、全体最適を実現するアルゴリズムが存在する。それは共有知識をもたない突然変異が出てきて、自分だけG型に移行することだ。これは一時的には損するが、長期的にはG型が多数派になると全体最適が実現する。孫正義氏のように空気を読まない起業家は、利己的であっても社会の大進化を可能にするのである。

電通のような「タコ部屋」は、既存のシステムの中で淘汰によって部分最適を守る小進化のメカニズムとしてはすぐれているが、全体最適にジャンプする大進化はできない。それは電通の責任ではなく、日本社会で長期にわたって積み重ねられた慣習なので、簡単に変えることはできない。

しかし役所が、こういう問題の所在を認識することは重要である。進化論の言葉でいうと、社員を束縛して異分子を排除する淘汰圧を弱める改革が必要だ。会社に一生ぶら下がらなくても、「この会社はブラックだ」と思ったら辞めて他に移動できる柔軟な労働市場が、労働者のストレスを減らして命を救うのだ。