『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

倉本 圭造

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp

で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。

テレビドラマなんて普段どころか今までの人生で何個か(リーガルハイ・シリーズとか)しかちゃんと見たことがなかったぐらいなんですが、奥さんが途中から「逃げ恥」を毎週見はじめて、それをチラ見してるうちに私も超ハマってしまいました。

だいたい、最終回の一個前ぐらいで、やっと主人公の男とヒロインが、街を歩いてる時にお互いの手を「恋人つなぎ」にできた!!!ってだけで「うおおおおお!!!やったあああ!!!良かったなああ!!!」ってなるドラマってあんまり普通はないんじゃないかと思います。

現代人の男女は「男女交際なんてそりゃあ俺も色々やってきたしね」的にスレたところを見せてないとマウンティングされまくっちゃう恐怖心みたいなのがあって、そりゃあ手をつなぐぐらい、別に付き合ってなくたって、飲み会でちょっとフィーリングがあったらやっちゃったっていいんじゃない?みたいな世界じゃないですか。

まあそれが良くないとまで言うわけじゃないですが、「何かをやることの心理的ハードルが高い臆病なタイプ」ってのは悪いことばかりじゃないですよね。

そこで、こだわりが強すぎて恥ずかしがってるとチャンス逃がすよ!!!って焚き付けまくって、いつでもどこでもアクティブに攻めて攻めて生きてないと駄目って方向に人々を誘導しまくる今の時代の「普通」は、むしろ「今目の前の人と手をつなげている特別さ」から必死に逃げているとも言える。

私事ですが、私の最初の本『21世紀の薩長同盟を結べ』の中で「ニート状態からやっと自分なりの職業にたどり着いて独り立ちできたストーリー」を紹介したウチの弟が昨年結婚できたんですね。「できた」って言うのちょっと失礼な感じもしますが、でも多分奥さんは彼にとって「30歳超えてできたはじめての彼女」だと思う。

結婚式が凄い良くて(兄バカですいません)、たまたま通りかかった中国人の観光客の人が無意味に彼らの写真を撮りまくってたぐらいで!!

結婚するって話を最初に聞いた時に、ウチの奥さんが「じゃあお相手の方とは、最初からもう結婚するぞ!って思って付き合い始めたんだね」って弟に聞いたら、彼は

「僕にとって付き合うっていうのは当然そういうことだったんですけど」

って言ってました。で、それ聞いて私も私の奥さんも「そういうのっていいなあ!」って思ったんですよね。弟の奥さんは多分彼が「最初の彼氏」ってわけじゃないと(思う)けれども、でも彼のそういう部分が「良い」と感じて決断してくれたようなところは結構感じます。

そういうのは現代風におしゃれな人間関係からすると「無駄に重い」ように見えるけれども、「重いからこそ、その関門を超えた関係に特別さが宿る」価値もある。

要するに「なんでもできる汎用品」に自分をトレーニングしていくと、「自分である意味」や「眼の前のその人と一緒にいる意味」なんてどこにもなくなっちゃうわけじゃないですか。別に他の誰かだって全然いいことになる。

どんな時でも常に色んな女性に声をかけることができて、相手の女性がどんなタイプでも軽妙な会話ができるスキルがあって、100人の女性が100人とも「良い」と思う容姿と身のこなしを身に着けて・・・ってなっていくのが「結婚への近道」だ現代人はついつい思っちゃうけど、ある意味でそういうのは単に「何かから必死に逃げているだけ」なのかもしれない。

よく経営戦略は「自分ができないこと」がポジティブな意味を持つように持っていくことが成功のカギだって言います。大手に比べて小さい会社なら小さい会社なりのスピード感とか小回りの良さがでるように動くとかね。長所と短所は常に表裏一体で、「その人の本質」の別形式の見かけにすぎないので、短所を無理やりヤスリでゴリゴリ削っちゃうと長所も一緒に削っちゃうことになって、凹凸がないノッペリとした「どこにでもある人材・会社」にしかならなくなったりする。

むしろ「こっちにはこういう凹があるけどそのオカゲでこういう凸がある」という方向に進化していくなら、「自分にとっての特別な凹」を「埋めてくれる凸」を持っている相手と出会うことができる。それは会社だったらお客さんだったり取引先だったりだし、個人の人生だったら「必然性を持った伴侶の候補」だったりするはず。

こういうのは、偏差値的に一直線に序列化された価値観における「要求スペック」がどんどん上がっていく世界とは大きく違いますよね。

ちなみに、「個別の凹に合う凸を持っている人を」とか言ってると要求が厳しすぎて出会いがなくなっちゃうんじゃないか?って思っちゃうのは幻想なんですよ。というのは、現代社会で生きてると、いわゆる「出会い」って無いわけじゃないんですよね。さらにいざ「結婚したい」ってなって動き出したりするならもう出会う「チャンス」なんていくらでもある時代なので。

だから、今の時代の「結婚できない男女」に足りてないのは「出会いの数」ではなくて(これはもう増やそうとちょっと思えば無尽蔵に実は増やせる)」、「その中から個別的必然性を持って一人を選べる確信」の方なんですよ。

勿論、現代日本人の結婚できなさ・・・の中に今は「経済の問題」は深く関わっていることを否定しませんし何らかの対策が取られていくべきだとは思っていますが、でもある意味貧乏なりにワイワイやってるカップルだっていないわけじゃないわけだから、「二人が一緒にいる理由」さえ強固にあるならば、協力しあってサバイバルしていけばなんとかなったりする問題だとも言えるわけですよね。

さらに言えばウチの弟だってさっき紹介した私の本に書いたように一時は「ひきもりニート道まっしぐら」になりかけていたので、そこから「経済的自立を勝ち取り、一緒にいる必然性を持った女性と関係を取り結び」・・・という一連の「惰性を超えたジャンプアップ」が、一個ずつ「偏差値的序列思考からの脱却と、自分の個別性への目覚め」によって実現されてるとも言える。

勿論全く出口のない社会的貧困状態に比べたら周りのサポートだってあった「恵まれた例」なんだろうけど、でもやはり「偏差値的な序列化から見ると希望が全然ない状態」からであればあるほど「個別性」をちゃんと掘って行かないと出口がどこにもないということの良い例でもあると私は思っています。

単純化して言えば、安定した職業につく必要があるなら就職すればいいし、それに必要なスキルがあるなら習得すればいいし、自分と一緒になるべきパートナーが必要なら出逢えばいいだけの話だと言える。別にオリンピックで金メダル取るとかノーベル賞取るとかいう話じゃないんだから、「本当にそれを獲得するためにその人に与えられた全ての資源を投入できるなら」不可能なはずがない程度の問題だと言えるわけです。(マクロに見ると必ずしもそうは言えないかもしれないが、個々人のレベルで言えば明らかにそうなんですよ。)

でも「それを自分が獲得するべき理由」だけは自分で真剣に編み出していかないと誰かからポイっと与えられたり「こうすれば本当の自分さんに出会えますよ!」というような方程式を教えてもらえたりすることは決して無いということですね。

で、そうやって「自分の意志で選んで積んでいく」という話で言うと、例えばこの

「運命の相手」ってよく言うけど、私そういうのいないと思うのよ。運命の相手に『する』の。意志がないと続かないのは、仕事も家庭も一緒じゃないかな〜
byみくり(ヒロイン)の母親   

みくりさんの母親のセリフ、結構印象的でしたね。この直前には「赤の他人なんだし無償の愛なんて注げないわよ。努力して愛を維持してるの」的な趣旨のことも言ってました。

夫婦って・・・というかまあ、夫婦に限らないんですが、母子関係のように「生まれた時から唯一無二な縁」がある関係でないものは、現代人的にサメた感覚から言うと全て「赤の他人」であるように思えてしまう時はやはりありますね。

でもそれは逆に言うと、「母子関係は選べない」けど、「夫婦(例えばね)のような関係は自ら選ぶことができる」という幸せがあることでもある。特に、母親との関係に心理的に長い間難しい問題を抱えていたような人が(私の話なんですが)、奥さんとの関係の中で「ああ、全ての女の人があの母親みたいなんじゃないんだ」と知ることがどれだけ大きな救いになるか・・・というようなケースもある。

まあそんな個人的な話は別として、現代人的には、「努力して愛情っぽいものを維持している関係」なんて、結婚制度とか家制度とかそういう旧時代的に無理矢理な抑圧で一緒にいることを選択しているだけで、それは『本当の関係』とはいえないものなんじゃないか、そういう無駄な抑圧を全て取り払って、一切抑圧感のない本当に自然な関係だけで組み上げるのが「あるべき姿」なんじゃないか・・・なんて思ってしまいがちじゃないですか。(めちゃ大げさな言い方してるのでそんなこと考えてないよ!って思うかもしれないけど、でも多くの現代人は無意識的にそういう価値観に引っ張られて生きていると思います)

でもそういうのって、人生を生きる戦略としてあまり有効的でないことが多いはずなんですよ。

というのは、人生は毎回ゼロから配られたカードで勝負できるポーカーゲームみたいな構造をしてないからなんですよね。毎回配られるカードによってリセットされるなら、いわゆるサンクコストバイアス(ここまでこうしてきたんだし・・という惰性が次の一手の判断に影響を与えること)は排除しなくちゃいけない。つまり「一手一手を理性的客観的にそれ自体として評価」することが必要になってくる。

でも人間の人生は、「若い頃配られたカードをじっくり温めてたら後々凄い良い味になってくる」「随分後になって配られたカードは見かけ上スペックがいいかもしれないが、もうそこに長い時間をかけた”関係を積んでいく時間”は失われている」というどうしようもない性質がある。

偏差値的に一直線の基準なら「そこそこのスペック」のカードでも、長い時間かけて「馴染んで」いくと、その「馴染み」自体が人生の中で本当に大事な幸せの源泉になったりする。「とても良いスペック」のカードを手に入れても、「馴染み」に時間をかけることができなければそれは結局他人と一緒じゃない?って感じだったりもする。

だから、昔このブログ記事↓
バブル女性は日本の新しいお見合い仲介者になれるか?
に書いたように最近の「恋愛はしたくないが結婚はしたい」というようなワカモノの性向は、妥協や誤魔化しじゃなくて、「本当の幸せへの道」なんだと私は思っています。

「スペック的に完璧な選択肢」を選ぼうとするよりも、「可能な選択肢」を選んで、「努力して温めていく」ことで、5年後、10年後には本当に人生の幸福感の基礎になるものが築かれて行く。その「想像力」が大事なんですよ。

大げさに言うと「スペック的判断ではないところに自分の人生への自力の可塑性は存在するという感覚」・・・全てがカタログ化される現代社会で人間がどんどん忘れがちな大事な感覚。それは、哲学的に言うと「実存主義哲学」っていう部類の感覚なんですね。

そろそろアゴラの文字数限界にはなっているので、分割して掲載します。すぐに一気読みしたい人はブログでどうぞ。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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