アダムに“へそ”(臍)があったか

2017年最初のテーマを考えた。ドナルド・トランプ氏が今月20日、米大統領に就任することから、世界は不安と期待の混じった複雑な心情で新米大統領の動向をフォローしている時だ。そこで米新大統領と欧州の関係を書こうかと考えたが、急きょ、考えが変わった。「臍(へそ)の話」を紹介することにした。

▲ミケランジェロの作品「アダムの創造」(ウィキぺディアから)

バチカン放送独語電子版で独の法医学者ハンス・ベルンハルト・ヴェルメリング氏の大晦日の講演「アダムのへそとエバのリンゴかじり」(Adams Nabel und Evas Apfelbiss)を聞いた。アダムはへそをもっていたか、へそがなかったか、というテーマは、トランプ氏の大統領就任よりも宇宙的意義があり、新年をスタートするのにふさわしい普遍的なテーマだと判断した次第だ。

前口上はここまでにして、「へその話」を始めよう。胎児は男でも女でも母親の胎内で成長する。胎児は母親から成長に必要な栄養素をへそを通じて吸収していく。へその役割は小学生でも知っている。ところで、キリスト教界ではいつものことだが、その初歩的生物学知識について長い論争の歴史を経験しているのだ。

アダムにへそがあった場合、人類最初の男性のアダムは母親の胎内から生まれたことを実証する。アダムにへそがなかった場合、彼は神が直接創造した男性だったことを示唆する、というわけだ。両者の間には天と地の差がある。少なくとも、神の創造説を信じるキリスト教信者たちにとってはそうだ。だから、アダムの「へそ有り説」から「ヘそなし説」の間で喧々諤々の教義論争が展開されてきたわけだ。

バチカン宮殿のシスティ―ナ礼拝堂の天井画「天地創造」の「アダムの創造」を思い出してほしい。有名なミケランジェロ・ブオナローティの作品だ。旧約聖書の創世記の天地創造を描いたものだが、アダムのへそ有無について、聖書や外典も何も言及していない。それ故に、教義論争が起きてきたわけだ。

アダムを描く修道僧の画家たちはへそを描くべきか、へそなしのアダムと描くべきかで想像できないほどの深刻な葛藤を体験しているのだ。画家は同僚に聞く。そして修道院長に聞くが、答えがない。そのうち、アダムのへそ論争は世間が知るようになったわけだ。

最終的には、保守派聖職者が多数を占めていたギリシャ正教会公会議が「アダムにはへそがなかった。神が直接創造されたから、母親の胎内は必要なく、へそも必要でなかった」と決定した。それ以降、ギリシャ正教会ではアダムはへそのない姿で描かれるようになったという。

一方、ギリシャ正教の決定に従わない西方教会はアダムはへそを持っていたと主張した。その理由は「へそは美的だからだ」というかなり根拠の薄い理由からだ。例えば、イギリスの自然学者フィリップ・ヘンリー・コス(1810~1888年)はギリシャ語でへそを意味するオムファロスを提唱している。彼は天地創造と地質学の知識とを融合させる学説を考え出した。

へそはエバが神の戒めを破ってリンゴをかじったから、その原罪の刻印がへそとなったという説もある(リンゴをかじったという話も聖書では記述されていない)。進化論者の主張も忘れてはならないだろう。人間にへそがあることは神の創造説を否定する根拠であり、人間は神によって創造されたのではなく、進化してきたというわけだ。逆に、人間は過去(聖書の世界)とは全く関係がなく、自分は自分が決定できるという過激なジェンダー理論では、出身も出産も関係がない。すなわち、へそとは全く関係がない世界観だ。以上、独法医学者の講演をもとに「へその話」をまとめた。

新年早々「へその話」となったが、自身を知るという意味で「へその話」はそれなりに意義があると信じている。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年1月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。