龍馬に未来を託された人「由利公正」

畑 恵

坂本龍馬が暗殺される5日前に書いたと推定される手紙が発見され、大きなニュースとなっています。

(高知県提供)

大政奉還直後の混乱の中、前福井藩主・松平春嶽の側近・中根雪江に宛てたこの書状の中で、龍馬は初めて「新国家」という言葉を使い、新政府の財政担当者に福井藩士の三岡八郎(後の由利公正[ゆりきみまさ])を出仕させるよう懇願しています。

(高知県提供)

由利公正を敬愛する私にとって、流麗闊達な水茎も瑞々しい龍馬の書状が、大きく乱れ始めたこの時代に現出したことは何かの啓示のように思われ、胸が熱くなりました。

明治の傑物の一人である由利公正ですが、正直あまりメジャーな人物とは言い難いので、この機会にご紹介させて頂きます。

龍馬の手紙から遡ること38年、1829年(文政12年)に福井藩士の子として生まれた三岡石五郎、後の由利公正は、西洋流砲術を学び武器調達に従事したことからその基礎となる財政の重要性に目覚め、また熊本藩出身で福井藩の政治顧問に招かれた思想家・横井小楠に師事することにより、儒教倫理の“至誠”を踏まえた“経世済民”、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」を学び、かつ実践して藩の財政再建に尽力します。

由利公正の卓抜した財政手腕と志の高さ、実直な人柄を評価した坂本龍馬は、新政府誕生後の政府中枢に公正(きみまさ)を迎えるべく奔走。岩倉具視などへの強い推薦が功を奏し、公正は明治政府に参与として招かれ経済財政を担当することを命じられます。

財政的に逼塞する新政府の国家予算を調達するため、公正は太政官札(政府が発行した、日本で最初の全国紙幣)300万両の発行を提言。その成功のためにも、民衆からの信用を確立すべく新政府の大義を明らかにし、方針を示すべきと思い至り『五箇条の御誓文』の草案となる「議事之体大意(ぎじのていたいい)」を起草します。

「民富めば国富むの理」を信じ、身分にかかわらずすべての人民に志を叶える機会を与えようとした公正の草案でしたが、残念ながら朝廷の権威などに配慮した木戸孝允らによってそのニュアンスは微妙に書き換えられてしまいます。

些か長くなりますが、公正の「議事之体大意」の5カ条と、明治政府の五箇条の御誓文を比較してご覧ください。

まずは、公正が起草した「議事之体大意」です。

一、 庶民志を遂げ 人心をして倦まざらしむるを欲す

(庶民の意志が遂げられるようにし、人々に希望を失わせないことを願う)

一、 士民心を一つにし 盛んに経綸を行うを要す

(武士と庶民が心を一つにして、積極的に国家の政策をおこなうことが必要である)

一、 知識を世界に求め 広く皇基を振起すべし

(知識を世界に求め、天皇が国を治める事業の基礎を発展させるべきである)

一、 貢士期限を以て 賢才に譲るべし

(貢士[藩主の推薦で選ばれた新政府の役人]は任期を決め、優れた才能を持つ人に後を譲るべきである)

一、 万機公論に決し 私に論ずるなかれ

(政治上の重要な事柄は公正な意見に従って決めるべきで、個人的な判断で決めてはいけない)

由利公正は、後に第4代の東京府知事も務め、府職員の冗員を整理し、警察制度の基盤を整備、さらには大火にあった銀座に不燃性の高いレンガ建築を採用するなど、時代に先駆けた行政制度や都市計画を立案・実行しました。確か舛添前都知事も記者会見で「万機公論に決し、私に論ずるなかれ」の一文をかつて引用し、当時は由利公正の言葉を知っているとはさすがと感心したものですが、今となっては「論語読みの論語知らず」の好例となってしまいました。

かわっては、『五箇条の御誓文』です。

一、 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ

一、 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ

一、 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ 人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス

一、 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ

一、 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ

こうして読み比べると、「庶民志を遂げ 人心をして倦まざらしむるを欲す」とシンプルかつストレートな思いを冒頭に掲げた、公正の燃えたぎるような信念に圧倒されます。

文よりも武に秀で、とにかく型破り規格破りだった公正は、常識や慣習にとらわれることなく物事の本質を鋭くとらえ、世の理(ことわり)を深く理解し、それに基づいた新たな仕組み・仕掛けを考えつく発想力と、それを実現する行動力にも長けていました。

傾いた福井藩の財政を建て直すため、藩で紙幣を発行しそれを生糸生産者に貸し付けて養蚕事業を興隆させ、さらに増産した生糸を輸出して外貨を稼ぎ福井藩に莫大な富をもたらします。ただせっかくの富も、藩の上層部が全国に通用する切手の発行を提案した公正の進言を却下し、信用の薄い藩札を増刷したため、結局藩札の暴落とともに財政改革は頓挫してしまいます。

そうした財政状況の下、勝海舟からの推薦を受けた坂本龍馬が公正のもとを訪ね、幕府の神戸海軍操練所の資金提供を依頼します。幕臣に限らず、どの藩のどの身分でも、たとえ武士でなくとも希望者を受け入れるという新たな海軍の構想に共感した公正は福井藩を説得、5,000両を出資させます。

時機を同じくして公正も、かねてより考案していた通り、農民を兵士として取り立てる計画を実行。それは長州藩の高杉晋作が奇兵隊を組織する以前の出来事だったそうです。

やがて福井藩は、武装上洛して朝廷と幕府を結びつけんとする挙藩上洛計画を隠密に進めますが、タイミングを逸したことにより計画は中止となり、熊本藩や薩摩藩に協力を要請していた公正は蟄居を命じられてしまいます。

そんな蟄居生活が4年も続いた1867年(慶応3年)10月4日、大政奉還がなされ、江戸幕府は消滅。そしてその翌月、再び坂本龍馬が公正のもとを訪れます。龍馬は懐から、自身が新政府の方針を記した「船中八策」を公正に示し、新政府への協力を要請します。

その5日後、龍馬は今回見つかった中根雪江宛ての手紙をしたため、そのまた5日後には京都・寺田屋で暗殺されてしまうのです。

龍馬が亡くなった後、彼の進言を受けた新政府は福井藩に公正の出仕を迫りますが、己の信ずる道を猪突猛進する公正を危惧し、藩はなかなか承諾しません。再三の招請を受け福井藩はやっとこれを認め、公正は新政府の徴士となります。この時点での徴士は、長州藩の木戸孝允、横井小楠と公正の3名だけだったそうです。

坂本龍馬が命を賭した維新の志は、一通の手紙により由利公正へと受け継がれ、その後公正は枯渇しかけた新政府の戦費調達に奔走。公正という人物への厚い信頼を礎に20万両もの大金を商人たちから集め、新政府軍を率いていた西郷隆盛のもとへ届けます。

そして1868年(慶応4年)4月、西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟との話し合いにより江戸城は無血開城され、新たな時代が始まります。

死の直前に龍馬が送った一通の手紙は、人々の熱き思いが間一髪のタイミングで紡ぎ合わされながら、いつの時代も歴史は作られて行く不思議を、今に伝えてくれている気がします。

【参考文献】

・ 『幕末・維新人物伝 由利公正』(ポプラ社)

・ 『由利公正のすべて』三上一夫、舟澤茂樹編(新人物往来社)


編集部より:この記事は、畑恵氏のブログ 2017年1月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は畑恵オフィシャルブログをご覧ください。