今週は夕刊フジで今週は私の連載が載っている。「日本に迫るリスク」というタイトルで月曜日から金曜日までだ。第一回は難民・移民の問題。少なくとももともとの国民の意思に反して難民や移民が政治勢力化してその国のあり方を変えてしまうのはおかしい。第二回は蓮舫さんと小池百合子さんを通じて日本のメディアの問題を考える。第三回は、天皇陛下の退位問題をタイ王室の危機などともからめて論じる、第四回は仕事のリスクを電通やPKOの問題ともからめて考える、第五回はトランプ時代の日本外交の課題と日韓問題だ。
ぜひ、本紙も読んで頂きたいし、電子メディアzakzakでは一日遅れで出てくるが、いずれもアゴラの読者に興味があるテーマだから、こちらでは、二日遅れで同じようなテーマについて二日遅れで少し詳しく書いていく。
「蓮舫『二重国籍』のデタラメ」(飛鳥新社)では、蓮舫さんの二重国籍問題で、島国の住人である日本人がほとんど意識したことのない国籍というものの重要性がクローズアップされたことの重要性について書いた。もともとヨーロッパでは国籍をいくつ持っていても咎められなかった。大名の出す通行手形みたいなものだったからだ。
それが第一次世界大戦で仏独など二重国籍の人はどこの国のために戦うかという深刻な問題があったりして、やはり、単一国籍の原則の確立をめざすべきだということになり、しかし、現実に各国の制度の統一が実現しない限りは二重国籍を完全にはなくせないので、国籍抵触条約などというのが結ばれたわけである。
一方、戦後になって欧州統合が進み、いずれは、欧州市民権というようなものに収斂することが意識されるようになった。また、外国で働くことの自由が拡大し、国際結婚もふえたので、過渡期的に二重国籍に寛容な流れもあった。
しかし、難民や移民の増加、租税回避、テロというような問題が出てきて、厳格化への動きが強くなっているのが現状だ。究極的な目標としては、世界各国の国籍法を統一化して、単一国籍に収斂させつつ、不便がないように、例外措置、あるいは、国籍はないが特別のステータスを設ける、国籍を変える自由を拡大するなどことが理想だろうが、先の話だ。
いずれにせよ、権利は二人分、義務は一人分は不公正で絶対にダメだし、法の違いをすり抜けて一人分の義務も果たさないようなことは保護するべき権利ではない。
難民や移民への甘い対応は、イギリスのEU離脱や、トランプ大統領の出現という劇的な結果を生じさせ、世界を壊してしまったという嘆きもある。
オバマ大統領がいかに美しい告別演説をしても後任者は、オバマの八年間の成果をほとんど壊してしまいそうだ。アメリカ人は、オバマの業績を壊していいという選択をしたのだからしかたない。
ヨーロッパの女帝として君臨して欧州統合の理想を美しく語っていたメルケル首相も難民対策で失敗したと認めるはめになった。移民やマイノリティに得になるような政策をしても、誰も損をしないとリベラル派は言い張ってきたが、そんなことはありえないのだ。ウィンウィンということもあるが、その範囲をひろく想定しすぎた。たとえば、黒人の雇用や入学の優先枠を増やしたら、白人の枠は減る。
移民を否定すべきでないが、もともとの国民の意に反して文化や社会を移民の政治力で変えるのが変えるのは不適切だという当たり前のことが忘れられていたのだと思う。まして、それが歴史問題まで広がっては困るだろう。かりに、中国や韓国からの移民が多くなって、南京事件や慰安婦について彼らの主張に応じたように教科書を書かされたくはない。
そのあたりを「世界と日本が分かる 最強の世界史」(扶桑社新書)という新著でも説いたが、とくに、中国の巨大な人口は、うっかりすると他国の政治を変えてしまうほどの移民を送り出せる力を持っているということは重要だ。それは、ヨーロッパでの移民・難民問題とは比較にならないインパクトがあることを認識すべきだ。
中国が怖いのは空母を太平洋に展開すること以上に、沖縄や九州に移民や難民のかたちで華人を送り込むことだ。
蓮舫二重国籍事件は、二重国籍そのものの問題だけでなく、日本国家への忠誠や日本文化への愛着があるか問われないままに、首相になることすら可能だと気付かせてくれた。
その意味で、日本人は蓮舫氏に感謝しなくてはなるまい。