美濃加茂市長事件、弁護団は、なぜ“再逆転無罪”を確信するのか

郷原 信郎

全国最年少市長だった藤井浩人市長が、受託収賄等で逮捕、起訴された美濃加茂市長事件。昨年11月28日に名古屋高裁が言い渡した「逆転有罪判決」に対して、藤井市長は、即日上告していたが、5月16日、弁護団は、最高裁判所に上告趣意書を提出した。

同日午後1時から、東京地方裁判所の司法記者クラブで、主任弁護人の私と、上告審で新たに弁護団に加わった原田國男弁護士、喜田村洋一弁護士に、藤井市長も駆けつけて記者会見を行った(記者会見に参加したジャーナリストの江川紹子氏のyahooニュースの記事【「日本の司法を信じたい」~美濃加茂市長の弁護団が上告趣意書提出】)。

藤井市長は、会見で、「私が潔白であるという真実が明らかにされることを確信している」と述べたが、我々弁護団も、上告審での“再逆転無罪”を確信している。

日本の刑事裁判の「三審制」の構造

上告趣意書は全文で128頁に上る。記者会見では、説明用に抜粋版(50頁)を作成して配布した。これとほぼ同様の内容の抜粋版を、私の法律事務所のHPに掲載している(【上告趣意書抜粋版】)。

抜粋版の内容を中心に、我々弁護団が、最高裁で“再逆転無罪”を確信している根拠を挙げることとしよう。

その前に、日本の刑事裁判における「三審制」の構造と、その中で、上告審がどのように位置づけられているのかを説明しておく。

検察官の起訴を受けて、第1審(地裁)では、公訴事実について、白紙の状態から事実審理が行われる。被告人・弁護人が無罪を争う事件であれば、検察官の請求によって、公訴事実を立証するための証人尋問等の証拠調べが行われ、被告人質問で、被告人の弁解や言い分も十分に聞いた上で、第1審判決が言い渡される。判決に対して不服があるときは、つまり有罪であれば被告人・弁護人側、無罪であれば検察官側が、控訴の申立てをし、裁判は、控訴審に移ることになる。

控訴審(高裁)は、基本的には、「事後審査審」と言われ、第1審判決の事実認定や訴訟手続に誤りがあるか否かという観点から審理が行われる。特に誤りがないと判断されれば控訴は棄却され、誤りがあると判断された場合には、第1審判決が破棄され、第1審で審理のやり直しが命じられたり(差戻し)、控訴審自ら判決の言い渡し(自判)が行われたりする。このように、第1審判決の見直しに関して、必要に応じて、控訴審での事実審理が行われる。こうして出された控訴審判決に対して、不服があれば最高裁判所への上告が行われることになる。

上告審(最高裁)は、三審制の「最後の砦」であるが、上告理由は、「憲法違反、判例違反、著しく正義に反する事実誤認・法令違反」に限定されている。控訴審までに行われた事実審理や法律適用が、国の根本規範である憲法や、刑事裁判のルールと言うべき「最高裁判例」に違反した場合や、事実認定や訴訟手続に重大な誤りがあって、そのまま確定されることが「著しく正義に反する」という場合でない限り、上告審で控訴審判決が覆されることはない。

上告趣意書で主張した3点の上告理由

美濃加茂市長事件で、弁護人が上告理由として主張したのは、以下の3点である。

第1に、原判決(控訴審判決)は、「1審が無罪判決を出したとき、控訴審が、新たな証拠調べをしないまま1審判決を破棄して有罪判決を下すことができない」とする最高裁判例(昭和31年7月18日大法廷判決・刑集10巻7号1147頁)及び「第1審判決が、収賄の公訴事実について無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所が、事件の核心をなす金員の授受自体についてなんら事実の取調を行うことなく、訴訟記録及び第1審で取り調べた証拠のみによつて犯罪事実の存在を確定し、有罪の判決をすることは違法」とする最高裁判例(昭和34年5月22日第二小法廷判決・刑集13巻5号773頁)に違反する(以下「判例違反①」)。

第2に、原判決は、「控訴審が1審判決に事実誤認があるとして破棄するためには、1審判決の事実認定が論理則・経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要」とする最高裁判例(平成24年2月13日第1小法廷判決・刑集66巻4号482頁「チョコレート缶事件判決」)に違反する(以下「判例違反②」)。

第3に、原判決は、重大な事実誤認により、被告人を無罪とした1審判決を破棄して被告人を有罪としたものであり、無辜の被告人を処罰の対象とした点で、著しく正義に反するものである。

1審無罪判決を破棄して有罪自判するために必要な証拠調べ

第1の判例違反①の主張は、原判決が、第1審無罪判決を破棄して有罪の自判をすることについての判例のルールに違反したというものだ。このルールというのは、証人尋問や被告人質問等を直接行って、供述者の態度や表情等も含めてその信用性を判断する第1審(このようなプロセスを経た裁判所の判断を重視することを「直接主義」「口頭主義」と言う)と、その結果を記録した書面だけで判断する控訴審とは大きく異なるのであるから、控訴審が、一審無罪判決を覆して有罪判決を言い渡すためには、自ら新たな証拠調べをしなければならない、というものだ。しかも、その証拠調べも、単に、「やれば良い」というものではなく「事件の核心に関するもの」でなければならない。その結果、公訴事実が認定できると控訴審が判断した場合にのみ、有罪の自判をすることができる、というのが判例である。

ところが、本件の名古屋高裁での控訴審では、この新たな証拠調べが「事件の核心」である現金授受に関して行われたとは到底言えない。

控訴審では、贈賄供述者の中林本人の証人尋問が職権(裁判所自らが必要と判断して実施すること)で行われた。それは、中林の一審証言に際して「検察官との入念な打合せ」が行われ、証言に大きな影響を与えたと思われたことから、検察官との打合せ等に影響されない中林の「生の記憶」を確認するために、事前に資料等を全く渡さない状態で、中林の「生の記憶」を確かめようとしたものだった。

ところが、ブログ【控訴審逆転有罪判決の引き金となった”判決書差入れ事件”】でも書いたように、融資詐欺・贈賄の罪で服役中の中林に、今回の証人尋問の実施について裁判所から正式の通知が届くよりも前に、中林自身の裁判で弁護人だった東京の弁護士から、尋問に関連する資料として、藤井市長に対する一審無罪判決の判決書等が送られるという想定外の事態が起こった。中林は、自分の捜査段階での供述や一審での証言内容などがすべて書かれている判決書を事前に読んで、証言を準備していたのである。

中林は、一審証言とほぼ同じ内容の証言を行ったのだが、判決書を事前に読んでいたのだから当たり前であり、少なくとも、中林証言の信用性を認める証拠としては意味のないものだった。原判決も、

当裁判所としても予測しなかった事態が生じたことから、当裁判所の目論見を達成できなかった面があることは認めざるを得ない。したがって、当審における中林の証言内容がおおむね原審(1審)公判証言と符合するものであるといった理由で、その信用性を肯定するようなことは当然差し控えるべきである。

と判示している。

それ以外に、控訴審で行われた新たな証拠の取調べは、中林の取調べを行った中村警察官の証人尋問だけだった。ところが、それは、「中林の供述経過」だけにしか関係しない証拠で、しかも、中林の取調べを担当した警察官という捜査の当事者であり、中林証言の信用性が否定されることに重大な利害関係がある人物の証言なので、証拠価値が極めて低い。このような証拠調べが、控訴審での「新たな証拠調べ」として評価されるものではないことは明らかである。

そうなると、控訴審で、一審無罪判決を覆す判断をしようと思えば、最低限必要なことは、被告人質問で、現金の授受という「事件の核心」について、被告人から直接話を聞くことであった。しかし、被告人の藤井市長は、公判期日すべてに出席していたのに、裁判所は、被告人質問を一切行わず、直接話を聞くことを全くしないまま結審し、逆転有罪判決を言い渡したのである。

しかも、原判決は、ブログ【村山浩昭裁判長は、なぜ「自分の目と耳」を信じようとしないのか】でも述べたように、直接見聞きしたわけでもなく、裁判記録で読んだだけの一審被告人質問での供述について、「中林が各現金授受があったとする際の状況について、曖昧若しくは不自然と評価されるような供述をしている」という理由で、証拠価値がないと判示したのである。現金は全く受け取っておらず、一緒に昼食をしただけだと一貫して述べている藤井市長が、1年半も前に、誰かとファミレスで短時間、昼食を一緒にした時のことについて、資料をもらったか否か、どのような話をしたのかなど具体的に覚えていないのが普通であり、その点について記憶が曖昧だということは、被告人供述の証拠価値を否定する理由には全くならないことは言うまでもないが、原判決は、この被告人供述について、「被告人が記憶のとおり真摯に供述しているのかという点で疑問を抱かざるを得ない」などと、藤井市長の供述態度まで批判しているのである(その供述を直接見聞きしたわけでもないのに!)。

このような原判決が、第1審の無罪判決を破棄して有罪を言い渡す場合の判例のルールに違反していることは明白である。

控訴審での事実誤認の審査と1審の論理則・経験則違反の指摘

判例違反②の根拠としている「チョコレート缶事件判決」は、控訴審における事実誤認の審査の方法について、最高裁が平成24年に示した判断である。それまでは、第1審裁判所が、直接証人尋問等を行って得た「心証」と、控訴審裁判所が、事件記録を検討して得た「心証」とが異なっていた場合に、控訴審判決が、第1審判決を事実誤認で破棄することについて特に制約はなかった。しかし、裁判員制度が導入され、それまで以上に、刑事裁判の審理を1審中心にすることの必要性が高まる中で、最高裁は、

第1審において,直接主義・口頭主義の原則が採られ,争点に関する証人を直接調べ,その際の証言態度等も踏まえて供述の信用性が判断され,それらを総合して事実認定が行われることが予定されていることに鑑みると,控訴審における事実誤認の審査は,第1審判決が行った証拠の信用性評価や証拠の総合判断が論理則,経験則等に照らして不合理といえるかという観点から行うべきもの

と判示し、論理則・経験則違反が具体的に指摘できない場合には、第1審判決を事実誤認で破棄することができない、としたのである。

原判決でも、第一審判決の事実認定を批判する中で、「論理則・経験則違反」という言葉を多数、使ってはいる。しかし、その内容は、1審判決が論理則・経験則に照らして不合理であることを具体的に指摘したものではなく、控訴審の誤った「心証」に基づく判断を「論理則・経験則」と言い換えているだけである。

個別の判示についての記述は、証拠関係の詳細にわたるので「抜粋版」では省略したが、典型的な一例を挙げよう。

本件では、現金授受があったとされる現場に、常にTが同席していたこと、そのTが「自分が見ているところで現金授受の事実はなかった。席も外していない。」と証言していることが、現金授受を認定する上での最大の問題であった。

その点に関連して、最初にとられた中林の警察官調書では、1回目の現金10万円の授受があったとされた「ガスト美濃加茂店」での会食について、Tは同席せず、被告人と中林の二人だけだったように記載されているのに、その後、検察官調書で、Tも含めて3人の会食だったとされていることから、弁護人は、「当初、二人だけの会食だったと供述していた中林が、ガスト美濃加茂店の資料で3人だったことが判明したため、事後的に辻褄合せをしたものだ」と主張し、その点を、中林供述が信用できないことの根拠の一つとしていた。それに対して、中林は、一審公判で、「警察官調書作成後、メール等の詳しい資料を熟読するうちに、平成26年3月末頃から同年4月上旬頃、被告人が到着するのをガストの駐車場でTと一緒に待っていた情景等を思い出した。」と供述して、Tが同席していたことを自分で思い出したように証言していた。

これに対して、1審判決では、

中林は、すでに3月27日付け警察官調書において、被告人とガストの駐車場で待ち合わせたこと自体は供述しているし、4月2日午前中に被告人と中林との間でやり取りされたメールを見ても、Tを同行していた事実を推測させるような記載は見当たらないことからして、前記資料等を見たことをきっかけに前記情景等が思い出されたとする中林の説明はそのまま首肯し難い。

と指摘していた。

これに対して、控訴審判決(原判決)は、

確かに、メールの履歴をみる限り、Tに関する記載は無いものの、記憶喚起のあり方として、Tの存在を直接示す記載が無くても、メールを見ながら当時の状況について記憶喚起している中で、Tがいた情景を思い出すということは、経験則上あり得ることであり、この点も特に不自然ではない。

と判示し、まさに、1審判決の指摘が経験則に反しているかのように判示した。

しかし、1審判決は、記憶喚起の経過として、「メールにTの存在を直接示す記載が無いのにメールを見ながら当時の状況について記憶喚起している中で、Tがいた情景を思い出すこと」があり得ない、と述べているのではない。中林は、警察官調書で、被告人とガストの駐車場で待ち合わせたこと自体は供述しているのだから、「被告人が到着するのをガストの駐車場でTと一緒に待っていた情景等を思い出した」という「記憶喚起の経過についての説明内容」が不合理であることを指摘しているのである。

しかも、この点について、中林は、控訴審での証人尋問で、「Tがガストに同席していたことを思い出したきっかけ」について裁判所から質問され、「刑事さんに頼んで、カードの支払の明細を取寄せてもらったところ、しばらくして、それが来て、3人分のランチの支払があったので、Tがいたことがわかった。」と証言しており、中林は、控訴審では、「被告人が到着するのをガストの駐車場でTと一緒に待っていた情景等を思い出したこと」という1審での証言を、自ら否定している。

また、前述したように、控訴審で証人尋問が行われた中林の取調べ警察官の中村も、「中林は4月2日ガストでのT同席を、自分で思い出したのではなく、4月13日頃にガスト美濃加茂店の資料を示されて思い出した。」と証言しており、一審の中林証言は、中村証言とも相反している。

このように、Tの同席を思い出した経緯についての1審中林証言を、「首肯しがたい」とした1審判決の指摘が正しかったことは、控訴審における証拠調べの結果によっても裏付けられているのである。

ところが、原判決は、自ら行った証拠調べ(中林証人尋問)の結果を完全に無視し(この点に限らず、原判決が控訴審での中林証人尋問の結果を全て無視したことは前述した。)、1審中林証言について《この点も特に不自然ではない。》などと判示して、一審判決の指摘が誤っているかのように言っているのである。

これは、原判決の指摘が「1審判決の論理則・経験則違反の指摘」に全くなっておらず、余りにも杜撰なものであることの典型例であるが、それ以外の点も、証拠に基づいて仔細に検討していくと、中林の捜査段階からの供述経過や、関係者の供述を無視したり、1審判決の指摘の趣旨を誤ってとらえたり、全くの憶測で中林の意図を推測して中林証言の不自然性を否定したりするなど、1審判決の事実認定に対する批判として的外れなものばかりである。このような原判決は、最高裁判例で言うところの、「一審判決の論理則・経験則違反を指摘」したとは到底言えず、上記判例に違反していることは明白である。

著しく正義に反する重大な事実誤認

そして、第3の上告理由が、中林証言の信用性を肯定し、現金授受があったと認定したことの「著しく正義に反する重大な事実誤認」である。

証拠の詳細にわたる内容なので、「抜粋版」では省略したが、上告趣意書では、原判決が、証拠評価に関して多くの重大な誤りを犯していることを徹底して指摘した。証拠評価に関して、不当に過大評価したのが中林の知人のAとIの証言、不当に過少評価したのが、現金授受があったとされる会食に同席したTの証言だ。

Aは、1審公判で、「平成25年4月24日頃、中林から、被告人にお金を渡したいから50万円貸してくれないかと頼まれた。」と証言した。また、Iも、1審公判で、「浄水プラントの実証実験が始まった後の同年8月22日、中林とともに西中学校に浄水プラントを見に訪れた際、中林に、『よくこんなとこに付けれたね』と言ったのに対して、中林が、『接待はしてるし、食事も何回もしてるし、渡すもんは渡してる』と発言し、何百万か渡したのかと聞いたら、中林が『30万くらい』と答えた。」旨証言した。

これらの証言について、1審判決は、A証言を「中林において被告人に対して現金供与の計画を抱いていたとの事実の裏付けにはなり得るものの、それ以上に第2現金授受の存在を直接に裏付ける事実となるものではない」、I証言を「その性質上伝聞証拠に当たり、中林の公判供述の信用性に関する補助事実に過ぎない上、Iの公判供述における中林の発言内容は曖昧な内容である」と述べて、極めて簡潔な判示で証拠価値を否定した。

ところが、原判決は、Aが証言する中林の発言が、「Aに依頼した時点で、被告人に対し金銭を供与することを企図していたことを推認させる事実」だとし、Iが証言する中林の発言が、各現金授受に関する中林証言と金額も含めて整合している」とし、AとIの証言を、後から作為して作り上げることのできない事実であるという意味において、「中林証言の信用性を質的に高めるもの」と評価したのである。

1審判決が、A、Iの証言の証拠価値を当然のごとく否定したのは、もともと、その証言が、「中林の発言」を聞いたという間接的なもので、「伝聞証拠」であり、証拠としての価値が低いことに加えて、その「中林の発言」の内容も、信用性を高めるようなものではないからである。Aが証言するように、中林がAに借金を依頼する際に、その理由について「被告人に金を渡したい」と発言した事実があったとしても、Aから頻繁に高利で金を借りていた中林が借金を依頼する口実にしたに過ぎないと考えるのが常識であろう(実際に、控訴審での検察官の主張も、A証言は、中林の供述経過に関する証拠にしようとしただけで、Aが証言する「中林発言」が信用性を高めるとは言っていない)。また、Iが証言する、美濃加茂西中学校を中林とともに訪れた際の会話というのも、それまで実績がほとんどなかった中林の会社が美濃加茂市の中学校に浄水プラントを設置したことについて、中林が、会社の実績を上げたように誇大に説明する中で(実際には、この設置は「実証実験」であり、費用もすべて中林側が負担しているのであるが、Aはそのことは知らされていない。)、「それなりのことはしている」と言ったという程度の「他愛のない世間話」に過ぎないと考えるのが常識的な見方だろう。

それに加え、1審裁判所は、彼らの証言態度や中林とA、Iとの関係などから、凡そ証拠として評価するに値しないと判断したものと考えられる。

A、Iは、かねてから中林と深い関係があるほか、本件や中林の融資詐欺の捜査の進展によって利害を受ける立場にあり、全くの第三者による証言とは質的に異なる。

Aは、中林が会社を設立した際には発起人となり、「見せ金」として設立資金を一時的に提供するなど同社に深く関わっていた。しかも、中林が金融機関から騙し取った金の多くは、Aの中林への貸付金の返済としてAに渡っていた。そのため、当然のことながら、Aは、中林の逮捕後、融資詐欺の共犯の嫌疑で捜査を受けており、多数回にわたって警察の取調べを受け、自宅や所有自動車等の捜索も受け、自宅から多額の現金も発見されていたことは、同人も証言している。ところが、Aが「被告人に渡す金として中林に50万円を貸した」旨の供述を行い、その後、中林が、Aから借りた金で20万円を被告人に供与した旨供述して以降、愛知県警捜査二課の捜査は、中林と被告人との贈収賄に集中し、Aに対する融資詐欺の共犯の捜査もうやむやのまま終わり、Aは逮捕されることも処罰を受けることもなく終わっている。ある意味では、中林の贈賄供述により、中林以上に恩恵を受けたのがAだったと言える。

Aは、中林が被告人への現金供与を供述するより前に、警察の取調べで聴取対象とされていた融資詐欺の共犯の容疑とは全く無関係の上記供述を始めた。少なくとも、その後、警察捜査が、中林を贈賄者とする本件贈収賄事件の方向に進展したことは、Aに対して有利に働いた。そして、Aは、本件公判で、中林から被告人に現金を渡した旨の報告を受けたことなど、検察官に有利な証言を行っている。

また、1審の証人尋問で、検察官の主尋問にはすらすらと答えていたIは、弁護人の反対尋問になると態度が急変し、中林とともに設置された浄水プラントを見に行く理由となったプラントの設置と自分の仕事との関係についても曖昧な説明しかできず、弁護人からの反対尋問で、「渡すもんは渡した」という中林の発言を聞いたことを最初に話した相手や、警察との関係などについて質問されて、証言が二転三転し、意味不明の言葉を発するなど、明らかに不自然な証言態度だった。

このようなA、I証言のいかがわしさ、不自然さは、少なくとも、1審でのA、Iの証言を直接見聞きした人の目には明らかだったはずだ。実際に、1審公判をすべて傍聴した江川紹子氏は、控訴審判決後に、【美濃加茂市長まさかの逆転有罪 名古屋高裁に棲む「魔物」の正体】と題する記事(週刊プレイボーイ2016年12月26日号[第52号])で、1審で明らかになった中林とA、Iとの関係に言及した上、

彼らは、中林社長とは金銭を媒介した利害関係人であり、背景は闇に包まれている。ふたりの証言を直接聞いた一審はこれを重視しなかったが、高裁はその速記録を読んで、いとも簡単に信用した。

と書いている。

原判決が、A、I証言を外形だけでとらえて、「中林証言の信用性を質的に高めるもの」と評価したのは、凡そ論外と言わざるを得ない。

同席者Tの証言の証拠価値の否定

一方、原判決が、不当に証拠価値を過少評価したのが、T証言だ。現金授受があったとされる2回の会食に同席し、現金の授受は見ていないこと、会食では席を外していないことを明確に述べるTの証言は、現金授受の事実は全くないという被告人供述に沿う有力な証拠であり、控訴審において、現金授受を認める方向で1審判決が覆される可能性はないと確信していた根拠の一つだった。ところが、原判決は、このT証言を、捜査段階からの供述に「変遷」があるとして証拠価値を否定したのである。

その大きな理由とされたのが、Tの取調べが開始された直後に作成された検察官調書の次のような記述だった。

中林は、4月2日にガストで会ったときと、4月25日に山家で会ったときの2回、藤井にお金を渡していると聞いています。しかし、私は、そのとき、中林が藤井にお金を渡している場面は、見た記憶がありません。ですから、仮に、中林が藤井に金を渡しているとするなら、私がトイレや携帯などで席を外した際に渡しているのではないかと思います。

原判決は、この供述調書の記載から、「Tが、捜査段階で、両方の席で席を外した可能性があることを前提とした供述をしていた」と言って、公判証言との間で「変遷」があるというのである。

Tは、被告人が任意同行を求められ逮捕された平成26年6月24日の早朝、被告人とほぼ同時に警察に任意同行を求められ、その後、同月28日までの5日間、連日、長時間にわたり警察の取調べを受け、「被告人と中林との会食の際に席を外していないか」と聞かれて「ない」と答えると、「絶対にないか、そう言い切れるか」と長時間にわたって執拗に質問され、威迫的言辞も交えた取調べが続けられた結果、28日には、身体を痙攣が襲い、椅子から転げ落ちて意識を失うほどの状況にまで追い込まれ、Tが依頼した弁護士の抗議により警察での取調べは中止されることになった。その間の26日に、名古屋地検で、検察官の取調べを受けた際に作成された供述調書が、上記の供述調書なのである。

そのような供述調書が作成された状況について、Tは、1審公判で、

「見ていないところで渡ったというのであれば、席を外したときしかない」ということは検察官から言われたと思います。僕は席を外していないということは一貫して言っておりましたので。

と証言している。

警察での取調べの状況からしても、「会食の際に席を外した」という供述を引き出すことに最大の目的があったのは明白であり、同日の取調べにおいて、Tが自発的に「席を外した可能性がある」と言っているのであれば、それこそ、検察官がまさに獲得しようとしていた供述そのものなのであるから、検察官は、そのままの供述を検察官調書に記載したはずであり、「仮定的」形態で供述を録取する必要など全く存在しない。

にもかかわらず、これに真正面から回答する記載ではなく、「仮定的内容」の記載になっているのは、Tが証言するように、同日の取調べにおいては、いずれの会食に関しても離席の可能性を否定していたからとしか考えられない。

警察での拷問的な取調べ、検察での欺瞞的な調書作成等、捜査機関が手を替え、品を替え、なり振り構わない姿勢で、Tから「席を外した」旨の都合の良い供述を得ることに腐心していたことは、1審の記録上も明らかである。ところが、原判決は、その中で作成された上記検察官調書の記載だけを取り上げて、「席を外した可能性があることを前提とした供述」ととらえているのである。

判例のルールに反することと重大な事実誤認

これまで述べてきたことは、128頁にわたる上告趣意書で述べたことのほんの一端に過ぎない。極めて丁寧な審理で適切な証拠評価・事実認定を行った1審判決を否定した原判決が、表面的には「控訴審判決」の外形を取り繕っていても、その内容は凡そ「刑事裁判」とは言えない杜撰極まりないものだ。

今回、上記の3つの上告理由を内容とする上告趣意書を作成し、取りまとめる過程で、改めて感じたのが、そこで引用した二つの最高裁判例が、実質的にも、刑事控訴審についての適切なルールであり、そのルールに反すると、事実認定に関しても重大な誤りを犯すことにつながるということだ。

原判決が「控訴審は、『事件の核心』について新たな証拠調べをしないまま1審無罪判決を破棄して有罪判決を下すことができない」という判例①、「控訴審が1審判決に事実誤認があるとして破棄するためには、1審判決の事実認定が論理則・経験則等に照らして不合理であること具体的に示すことが必要」とする判例②に忠実にしたがった審理を行って判決に至っていれば、一審無罪判決を破棄して不当な有罪判決を出すことはあり得なかったはずだ。

日本の刑事裁判の三審制で、「最後の砦」としての上告の理由が、原則として判例違反に限定されているのも、本件の判例と原判決の事実誤認の関係を見ると、十分に理由があることのように思われる。

今回の上告に対する裁判として、訴訟手続の問題である判例違反①との関係からは、理論的には高裁又は地裁への「差戻し」というのもあり得る。しかし、我々弁護団の一致した意見で、求める裁判は、「原判決破棄」「検察官の控訴を棄却する」だけに絞った。

一審で十分に審理が尽くされ、さらに、控訴審での事実審理の結果からも、1審の無罪判決が極めて正当なもので、それを不当に破棄した原判決が誤りだということは明らかだ。

 

記者会見冒頭の挨拶を、藤井市長は、以下のように締めくくった。

本日、弁護団の先生方に、最後の司法判断に向けて、最高裁判所への上告趣意書を提出して頂きました。

私の言い分を一言も聞くことなく、有罪を言い渡した控訴審判決が、全くの誤りであること、私にかけられた容疑が無実無根で、私が潔白であることを、完璧に論証していただいたと思っております。

私は、日本の司法の正義を信じたいと思います。

今回の上告趣意書を最高裁でしっかり受け止めて頂き、私が潔白であるという真実が明らかにされることを、そして、私の無実を信じ、市長として信任してくださっている美濃加茂市民の皆様に良い御報告ができることを確信しています。

「司法の正義を信じる」という若き市長の言葉に応える最高裁の適切な判断が出されることを、主任弁護人の私も固く信じている。


編集部より:このブログは「郷原信郎が斬る」2017年5月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は、こちらをご覧ください。