加計学園問題を巡る情報戦は、低次元な「雪合戦」 --- 郷原 章

前川元次官をヒーロー扱いする人を論破する

八幡和郎氏がどのような言論をしようがそれは自由である。ただ、上記タイトルの記事の「言論の質」が気になった。

タイトルは前川元次官を「ヒーロー扱いする人を論破」とある。つまり、ヒーロー扱いすることへの批判でしかない。

もし、それをもって「加計学園問題」に関する一連の前川次官の発言の真偽を論じようというのであれば、待ったをかけたい。

もちろん、正面から「加計問題」そのものに関する「証拠」を提示して議論するなら良い。
しかし人格の良しあしは、氏の発言の真偽と次元が異なる。

そもそも「不祥事退官後の“善行”を嗤う」は印象論ではないか。原文のどこに論拠が示されているだろう。

「実態調査ならヤクザやスパイと付き合っても良いのか」についてもそうだ。「怪しげ」なという形容の使用に正直さを感じるが、そこが苦しくもある(前川氏が違法行為をしたという証拠は、現時点ではない)。現状、より違法活動を行っている可能性の高い「スパイ」や「やくざ」との関与と例として並べてみても、私が感じるのは論理の飛躍である。

前川氏の家庭云々以下の記事も興味深いものではあるが、事実の究明という視点から見れば、いずれも、先入観を読者に与えるだけのものに思われる。(それは「ヒーロー」扱いすることについても言えることである。その意味に限定して八幡氏を支持する)

なによりである。もし、ある人間が罪を犯していたとしても、その発言が真実かどうか、それは別次元の話であろう。かりに、発言者の罪の大きさがその発言の「真実度」を失わせるとしたら、凶悪犯の発言はほとんど信ぴょう性がなくなることになる。

では、罪人の発言を嘘と決めつけて、その発言の真偽を確かめようとしないなんてことをしてよいのだろうか。それは無いだろう。これでは刑事事件の捜査はできない。重大な事案に関連するものであれば、どんな発言であれ、本来、一つ一つ裏をとって真偽を確認していくべきものだ。

もちろんこれは、善人の発言でも同じことだ。誰のものであれ、確認もせずに人の発言の真偽を決めつける行為は、冤罪の原因の一つである。いずれも科学的でも論理的でもない。

「加計学園問題」も同じことがいえるのではないか。
本来言論人がすべきことは、発言者の権威や罪の有無、人格の善悪にかかわらず、証拠をもってその発言の真偽を論ずることではないか。

それは、発言の主が安倍氏であれ前川氏であれ変わらないはずだ。もちろん、そのためには取材という名の丁寧な行為が不可欠だ。

そして、この取材行為に何らかの不当な圧力が加えられるなら、ことそれが権力によるものならば、それこそを明らかにするべきであろう。たとえそれがどんな団体からのものであっても「公平」に、である。(もちろん、前川氏に違法行為があるのなら別問題として調べればよい)

念のために言っておくが、私は言論人が特定の政党や思想を支持したり反対したりすることは基本的に自由と考える。

ある意味、個人に信念があれば、何らかの傾きは生じて当然であり、そのことだけをもって偏向と断じるつもりはない。
ただ、言論人には、自他を問わず健全な批判精神をもって言論に臨んでもらいたいとは考える。

資本主義の世の中。言論とはいえビジネスの側面もある。根拠があれば、多少刺激的な形容で推測を述べる自由もやむを得ない部分はあるだろう。

しかし「情報戦」のごとく「宣伝部隊」となることを言論人が買って出るような行為をするなら(それも自由ではあろうが)、弊害は大きいだろう。なぜなら、それは言論空間をプロパガンダで埋め尽くすことと同じであり「真実」から衆目をそらすことに他ならないからだ。

そうではなく、ある言説の真偽は、その言説に関連する確認済みの事実によってのみ確定されるべきだ。
そして、新たな真実が発見されたら、それによって言説は柔軟に修正されるべきであろう。
その繰り返しが不断になされる空間こそ、民主国家日本に相応しい言論空間ではなかろうか。

果たして、一連の「加計学園」問題を巡る言説はどうであろう。
あいつらが印象論というから俺たちも、といわんばかりの低次元な「雪合戦」であふれてないか。

八幡氏だけでなく、全ての政党、政治家、そして何よりマスコミと言論人に問いたいのである。

郷原 章
在中国大学勤務、日本語教師