未来は本当に明るいか
先日、日経BPが主催する「IT Japan 2017」の2日目に参加してきました。
今年のテーマは「デジタルイノベーションで創る競争戦略」。社へのAI導入は当然、それをどう使って他社に競り勝つか、どのように「新しい価値」を生み出すかについて各登壇者が熱のこもったプレゼンテーションを行っていました。
何よりも感じたのは登壇者の方々のポジティブオーラです。
こちらの記事でも紹介されていますが「AIではできないと思われていた熟練工の生産計画を学習したAIは、熟練工の役割を完璧にカバーしただけでなく、ヒトがきづかなかった効率的な方法すらも編み出した(すごいでしょ)」、と日立製作所のエヴァンジェリストがおっしゃっておりました。
「人間、もういらねーな……」
私のようなものはそう思ってしまうわけです。人間は、消費者としての存在のみ求められ、そのファジーな行動、人それぞれの趣味嗜好、健康のデータを吸い上げられるだけの存在になってしまうかのようです。
いや、もちろん登壇者の皆さんは「これによって人間の生活はよくなる」という社会貢献の意識を強くお持ちだと思います。そういう未来が一方にはありそうだとは思う。しかしもう一方で、時に病気になったり気分にムラがあったり、社の待遇に文句を言ったりする、パフォーマンスの安定しない人間は、企業にとって足手まといとなる未来が来るのでは、と思わずにはいられません。
世界に名だたる最先端の企業にお勤めの登壇者が語る未来が明るければ明るいほど、なぜか暗い気持ちになる。光が強くなれば影も濃くなるという自然の摂理を思わせる会でした。
払拭されない不安
では人間はどうするのか。「AIの導入によってルーティンワークから解放された分、創造的な仕事、発想力を養うことに専念できる」というわけですが、果たして一人の人間がルーティンワークを経ることなく生み出せる創造的な仕事とはいったいどれほどのものなのでしょうか。
AI時代には、世界中の「アイディア」がネットワーク上のどこかに記録されているでしょうから、「これは俺が自分でひねり出したアイディアだぜ!」と思っても、たいていの発想は検索すれば「いつかどこかで誰かがすでに思いついていた」ことにすぐに行き当たるのではないかと思われます。
AIが将棋で棋士に勝ったからといってすごいとは思わないし、やっぱり「14歳の天才少年が29連勝」という方が世間を沸かせることができる。感動を呼び起こせるのは圧倒的にAIよりも人間だと思います。が、こと仕事となるとどうなのか。天才的な方はいいのですが、凡人(特にホワイトカラー)の活躍の余地が残されているのだろうか。
他にも「影」はあります。UberやAirbnbがいかに「創造的破壊」を行ったかという話に対し、素直に「すごいな。既成の概念を破壊して、それを技術によって具現化したんだ」と思える人間と、「Uberで呼んだ車の運転手が不良ドライバーだったら嫌だな」と思ってしまう人間がいる。
また、「2025年には90%の端末がネットに常時接続状態となり、1兆のセンサーが皆さんの生活を見守ります」と言われた際、「新しい時代が来るぞ」と胸躍らせる人間がいる一方で、「つながりたくない自由は考慮されないのかよ最悪だな」と思う人間もいる。
Google lensの話題も出ましたが、店の看板にスマホをかざせばその店のメニューやネット上の口コミまで表示されるサービスを便利だと思う人間がいれば、「そのうち、ヒトにかざしたら履歴書やツイッターアカウントまでが見えるようになるで」と恐れおののく人間もいる。もう転校生の自己紹介なんていらなくなってしまいます(スマホをかざせばいいので)。
私はいずれも後者に当たります。しかし、この手の人間の不安を解消してくれるような説明は当然というべきか、ないわけです。
ズル休みはできなくなる?
私のような「本当にそんなことして大丈夫なんですか」という抵抗勢力を懐柔したほうが、世の中は早く進むと思う点では登壇者の方々と一致するところでした。が、その懐柔の仕方が「かえって怖い」と思わせるものだったことも指摘しておきます。
先のエヴァンジェリストは「共感力」として、技術力が叶える理想的な未来への共感が高まれば、システムはもっと早く構築できる、と次のような事例をイメージVTRで紹介しました。
「世の中の空調を全てIoTで結び、どこかで誰かが咳をしたら、空調がウィルスを感知。すると自動的に学校給食では免疫力を高める食品が配られ、自宅には予防薬が勝手に送られてくる」
いやどうなんですかね、これは……。もちろん、SARSやエボラ出血熱のように、死に至る病原菌から逃れたい気持ちはあります。しかし「ね、どうです。風邪をひかなくて済むんですよ。あなたは常に最高のパフォーマンスを発揮できるんです。共感してください。ぜひこの理想的な社会の構築に合意してください」と言われてもためらう気持ちは消えないわけです。
IBMの方が「テクノロジーの伸びと社会の変化は成長度合いが違う」という話をされていましたが、人間の心や習性が最も立ち遅れるのではないかと危惧します。
環境が変われば慣れる、という面も確かにありますが、しかしグローバル化に対しても現在これだけの軋轢や摩擦を生んでいるわけで、「果たして本当にプラス面ばかりだろうか」という懸念は残りました。
また、この「ウィルス感知システム」が実現すれば、「ゲホゲホ、風邪なので休みます」というズル休みなど許されない(上司「お前ん家の空調からウィルス感知されてないぞ!」と言われかねない)し、もしそのような嘘の申告をすれば「一体どこでウィルスに感染したのか」と探し回られることになりかねない。恐ろしい社会だと思うのは私だけでしょうか。
待っているのは「先回り社会」
何より恐ろしいのは、全てが、自分が考え行動する前にAIに立ち回られる「先回り社会」となることです。
「あなたはそろそろカレーを食べたいはずだ」「もしかして、ちょっと体調悪いんじゃない?」という予測や気づかいは、家族や仲間内なら悪い話ではありませんが、そうやってAIがすべて予測して、先回りして、用意してくれる社会というのはいかがなものか。
AI前の人間だから気づくこのような違和感も、AI後の人間からすればもはや疑問にも思わなくなるかもしれません。膨大なデータを蓄積できる社会になった昨今、この記事も(削除対象となるか、電磁パルス攻撃でも受けてサーバーの電子回路が破壊されない限りは)ウェブ上に偏在し続けるでしょうから、100年後に読まれて笑われるかもしれません。