あるはずのものが”ない”!

イラストAC(編集部)

「生理がないの」…これは一昔前、女性が付き合っている男性の本気度を試すための定番の質問だったそうです(伝聞ですので真偽はわかりません)。青くなって「まだ子供は早いよ」と焦るか、「早速、ご両親に挨拶しなきゃ」と出るかで本気度がわかるそうです。もちろん、後者が本気度が高い男性の反応です。

あるはずのもの(あったはずのもの)が”ない”というのは意外な盲点で、推理小説などでよく使われます。「侵入者がいたのに犬が吠えなかった」「アパートの上の階で人が机から落ちて死んだのに下の階で寝ていた人が気づかなかった」…等々。

私が社会人1年目の時、隣の席の1年上の先輩が「遅刻しそうになった」と言いながら慌てて出勤してきました。三つ揃えのスーツを着ていたのですが、ネクタイがありませんでした。シャツの上のボタンまでしっかり止めていたのに、ネクタイをするのを忘れたのです。周囲から大爆笑が起こったのは言うまでもありません。その先輩は、誰かに予備のネクタイを借りてその日一日を凌ぎました。

しかし、現代であれば、三つ揃えにノーネクタイというのは決して不思議ではありません。福山雅治さんが演じたガリレオこと湯川教授は、いつもノーネクタイに三つ揃えでした。昔は「あるべきものだったネクタイ」が、今は「なくてもいいもの」に変わった最たる例です。

民事裁判では、当事者が嘘をついていることが結構あります。自分の代理人である弁護士にも隠していることがあるのです。

相手の書面を読んだり証言を聴いていて、余計なものが加わっているような場合には、(ほとんどのケースで)事前に説明がなされます。例えば「不倫の場に子供を連れて行った」となると、その不自然さを当事者が事前に釈明するものです。乳飲み子なのに預かってくれる人がいなかったからとか。

ところが、あるべきものが”ない”というケースでは、当人も相手方もつい見落としてしまうので、事前に釈明がないことが案外多いのです。

あるべきものが”ない”書面を読んだり供述を聴いていると(はたまた相談を受けていると)、何とも釈然としない違和感を感じるものです。この違和感を突き詰めるかスルーするかで結論が変わってくることが往々にしてあります。

領収書ももらわなければ(自分が差し入れた)借用書の返還も受けていないのに「借金をきちんと返済した」と主張するだけだと、誰もが怪しいと感じるはずです。「本来であれば立ち会うはずの人がいなかった」というのも違和感を感じます。

ずいぶん昔、登記手続に権利証(登記済証)がなかったから不自然だと思い込む裁判官がいたため、不本意な判決を受けたことがありました(控訴審で覆りましたが)。大昔から権利関係が変わっていない不動産の場合、登記済証を紛失している人が実はとても多いのです(特に、名義が亡くなった親になっているようなケースだと)。そういうケースでは権利証(登記済証)に代えて保証書扱い(詳細は省きます)で登記手続をすることが多いのです。

司法書士さんの陳述書も証拠として添えて、「何十年も前の権利証(登記済証)を紛失するのは何ら不自然なことではない」という主張を退けた裁判官。あるべきものが”ない”と短絡的に判断したのでしょうが、もう少し実際の実務を知る努力をすべきでした。

先の借金の例にしても、業者ならぬ個人間の貸し借りであれば、領収書や借用書がないのは決して珍しくはありません。返済したと主張する側であれば、返済期日に銀行から同額を引き出した通帳などを証拠に出すべきでしょう。他人に用立ててもらったのであれば、その人の陳述書などを証拠として提出すべきです。

このように、あるべきものが”ない”というケースでは、主張する側は違和感を打ち消す努力を、相手方は違和感を追求する努力が必要になるのです。これは、訴訟だけでなく実社会でも当てはまる原則です。とはいえ、前述の裁判官のように、「あるはず原理主義」に陥っている人を説得するのは、とてもとても困難なのですが…。

荘司 雅彦
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2017-06-22

編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年6月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。