「共産党が唱える愛国主義の本質は独裁政権を、独裁政党を、独裁者を愛せということであり、愛国主義に名を借りて国と人民に災難をもたらすものだ」
彼の心にある普遍的な愛は、政治的文脈で語られる「愛国」とは真っ向から対立する。愛の名によって行われる暴政への痛烈な批判を含んでいた。判決は「中傷文書によって国家政権や社会主義制度の転覆を扇動した」と権力の牙をむき出しにしたが、彼はそれに対しても、「敵はいない」と愛を貫いた。その高貴な精神は、たとえ肉体が滅びようとも、大海を通じて永遠に、あまねく行き渡るに違いない。海は陸に慈雨をもたらす。世界の人々は、海を通じ、彼を身近に感じることができる。
日本メディアの偏った中国報道に対し、メディアの側はよく、「相手がよくなってほしいから批判をするし、問題点を指摘するのだ」と言い訳をする。だが私は、そう語る者たちが、すべてはないにしても、心の底からこの国を、この国の人々を愛しているのかどうかということについては懐疑的だ。愛がなければ、どんな言葉も相手の心には届かない。届かない言葉をいくら繰り返しても、それは雑音でしかない。それどころか、誤解や偏見を助長する害悪になりうる。
先方の事情をまったく顧みず、「相手のためになる」と自分たちの論理を押し付ける態度は、多くの日系企業が途上国で示す偽物の”愛”である。かつて西洋文化が宣教の旗を掲げ、侵略の先兵となった教訓、それをまねて失敗した日本の教訓を思い返すべきだ。ノーベル平和賞が政治と無縁であると信じているのんきな人はいないだろう。劉暁波氏の偉大さは、深い愛にあるのであって、ノーベル平和賞の受賞と何ら直接的な関係がない。深淵な大海の浄化作用によって、彼の精神はあらゆる利害得失から解き放たれたのだ。
拙著『中国社会の見えない掟 潜規則とは何か』(講談社新書 2011)の中で、劉暁波氏が投げかけた知識人の自覚について触れた。その際、清末の変法運動に影響を与えた啓蒙思想家、龔自珍(1792~1841)を取り上げた。満州族王朝の清は、文化面で圧倒的優位に立つ漢族を弾圧する必要からも、特に苛烈な弾圧を行ったことで知られる。満州族王朝の清は、文化面で圧倒的優位に立つ漢族を弾圧する必要からも、特に苛烈な弾圧を行ったことで知られる。
龔自珍は列強侵略の脅威にさらされたアヘン戦争の前夜、「木に文字が書かれていても病気に冒されており、虫でさえ言葉を話せば生き延びることができない」(『釈言四首之一』)と記し、知識階級が筆禍におびえ、気概を失った様を嘆いた。宮廷の腐敗に愛想を尽かして郷里の杭州に帰る途中の1839年、三百十五首を詠んだ『已亥雑詩(きがいざっし)』のうちに次の一首がある。
わが中国が生気をとりもどすには、突風と迅雷にたよるほかに方法はない。
すべての馬という馬ことごとく押し黙っている現状は、何としても哀れむべき限りだ。
わたしは天の神さまにお願いしたい。体をひとゆすりして、
資格だ何だにこだわらず、思い切って型破りの人材をわが中国に降し給わらんことを。
(松枝茂夫訳)
まぎれもなく劉暁波氏は、中国が生んだ国と人々を愛する知識人の一人であった。文字の獄の中で、真理と正義を貫いた堅固で誠実な知識人であった。自らを偽り、権力におもねり、真実から目をそらし、時流に押し出されるまま文字を垂れ流している人々に、猛省を迫っている。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年7月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。