昨日(7月18日)、読売・吉野作造賞の受賞式を開催していただいた。学者には申し訳ない華やかな会となり、関係者・出席者の皆様にあらためて厚く御礼申し上げる。
受賞作『集団的自衛権の思想史』は、集団的自衛権が違憲だという議論は、ドイツ国法学の影響が色濃い東大法学部系「抵抗の憲法学」の伝統に基づくものだ、と論じた。しかも沖縄返還にあたって政府が違憲だとし始めたにすぎない高度経済成長期・冷戦構造の産物だ、とも論じた。
たとえば、首都大学東京の木村草太教授は、自衛権は憲法9条によって否定されている、しかし幸福追求権を定めた憲法13条で個別的自衛権だけが例外として許容される、と論じる。ところが、集団的自衛権はこの例外に該当しない、とも断定する(木村草太『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』他)。
木村教授の発想は、本来は自然人の権利である幸福追求権を、法人としての国家が集合的にのみ適用するものだと考えている点で、根本的な錯誤を内包している。つまり日本領土が攻撃された場合にのみ政府は日本人の幸福追求権を守るべきだが、攻撃されるまでは守ってはいけないのだという。
しかし、これでは結局、単純に自国の領土が攻撃された場合には自衛権を行使してよいが、そうでなければダメだ、と言っていることと全く変わりがない。13条の参照は、全く何の意味もなく、単なる装飾である。結局、無意識のドイツ国法学の残滓に拘束されている発想が、本来の権利の主体である個々人を、国民という集合体に還元してしまっているのである。そこで本来は個人の権利である幸福追求権が、擬人的に捉えられる国家の権利の中で解消されてしまっている。
そもそも隣国であれば何が起こっても13条とは関係がないが、ひとたび自国の領土内で何かが起こればそれは13条を侵害する事態となる、といった極度に形式論的な発想は、現実に即しているとは言えない。たとえば隣国が侵略国に占領されてしまっては自国の防衛が不可能になる場合が、多々ありうる。その場合、隣国を支援することが自国民の幸福追求権の擁護につながるのは自明だ。木村教授は、日本の領土か否かという問いと、個々人の幸福追求権を守るべきか否かという問いを、混同誤認しているのである。
木村教授の推論は、国際政治学で「国内類推」と呼ばれる、国際法/国際政治に疎い者が陥る典型的な誤謬を示している。自然人と国家法人を根拠なく類似関係に置きすぎるので、本来の権利の主体としての自然人と権利保障者の国家の役割を区別せず、無批判的に同一視してしまい、論理の錯綜が生まれるのである。
自衛権は国際法の概念で、憲法典には存在しない。ところが強引に、たとえば国家の基本権概念を裏口から導入し、刑法の正当防衛などをあてはめて、自衛権の理解を捻じ曲げようとするのが、「国内的類推」に典型的に見られる誤謬である。観念論的なドイツ国法学の伝統に染まっている東大法学部系の憲法学者に、この錯誤の傾向が強い。
錯誤というだけではないかもしれない。集団的自衛権を根拠とする日米安全保障条約を国家安全保障の基盤に据えておきながら、それを無視しようとするのは、偽善的かつ欺瞞的なことだと言われても、仕方がないだろう。
ところが、華やかにテレビ等のマスメディアで活躍し、AKB48との共著(木村草太・津田大介・AKB48『日本一やさしい「政治の教科書」できました。』)などまで出している木村草太教授は、反安倍首相を鮮明にする特定メディアの常連コメンテーターのようになっており、「抵抗の憲法学」のドクトリンを広く社会に流布し続けている。その影響力は、絶大だ。
日本では、依然としてテレビに登場する学者が、最も強い影響力を行使する。そこでテレビに出やすくなるための議論を学者が提示しようとする現象まで、よく見られる。
マスコミを通じた絶大な影響力を誇る木村教授のポジションを理解するために、カギとなるのは、将棋、であるかもしれない。
木村教授は、将棋好きで知られている。単に将棋好きなだけではない。憲法解釈は将棋を指すように行うのが正しい、と公言している点が、木村教授の特色だ。
木村教授は、中学時代に校則が厳しくて抑圧されたため、憲法学者になった、と公言する(木村草太『憲法という希望』第四章)。中学校の先生に「抵抗」する代わりに、憲法学者となって政府に「抵抗」をしているというわけである。木村教授は、まさに「抵抗の憲法学」を、お茶の間の家庭向けに解説する伝道者だと言える。
戦後日本の憲法学は、「抵抗の憲法学」と称される。政府を制限することを立憲主義と呼び、権力に「抵抗」することが憲法学の役目だと自己規定するからである(拙著『ほんとうの憲法』参照)。この場合、「抵抗」の対象は、「政府」または「権力者」として、事前に規定されている。中学校の生徒が、校則を振りかざす教員に対する「抵抗」に憧れるのと同じで、憲法学者は、政府に対する「抵抗」に憧れる。そこでは、権力関係がまず固定されており、憲法解釈は、「抵抗」のための手段となり、道具となる。そして解釈の方法は、むしろ可変的となる。
木村教授は、このような「抵抗の憲法学」は、将棋に似ているという。どういうことだろうか。
木村教授によれば、「将棋における急所とは、その箇所を破られた瞬間、陣形が崩壊する攻防の焦点を言い、将棋で勝つには急所を掴むことが肝心である。このことは、法律論についても当てはまる。」(木村草太『憲法の急所:権利論を組み立てる』ii頁)。木村教授にとって、憲法解釈とは、相手の「急所」を狙い撃ちして、勝利を収めることなのである。
たとえば最近注目されている藤井聡太四段であれば、将棋の良いところは、年齢にかかわりなく対等に勝負ができることだ、と言う。対等な真剣勝負の場として、将棋を捉える。汎用性の高い詰将棋の解答・作成を極める作業で、実力を伸ばす。しかし木村教授であれば、権力関係に即した「敵」の駆逐のため、「急所」を狙い続けるための道具として、将棋を捉える。
木村教授の「演習」教科書では、「あなたはこういう立場をとる弁護士です」のような状況設定の中で、どういう答案用紙をかけるかが、次々と試される(木村草太『憲法の急所』他)。詰将棋の問題集のようなつもりなのだろうが、問題作成者が回答者の「立場」を設定してしまうのは、本当の詰将棋とは異なる。
実際の木村教授の議論では、さらにポジションの措定が重視され、対面する相手は固定的なものとされる。「抵抗の憲法学」では、決まった相手と対峙するのが、立憲主義である。憲法学者の相手とは、厳しい校則を課す中学の教員、あるいは権力者としての政府である。テレビでは、わかりやすく「安倍一強」あたりが具体例として参照される。
こうした「権力者」に有効に「抵抗」するために、相手の出方を読んで、相手を打ち崩す一手を打ちたい。こうした「抵抗のための手段」として、将棋が、そして憲法が、木村教授によって「使いこなす」ものとされる(木村草太『憲法という希望』第四章)、つまり道具的に使われる。
憲法解釈が将棋に似ている、と言うのは、「敵」を打ち負かすための「ゲーム」として似ている、という意味なのである。憲法を動かしている「敵」は、安倍首相のような「権力者」である。固定化された「敵」と戦う棋士=憲法学者にとって、憲法とは、あくまでも将棋の駒のようなもので、積年の恨みを込めて「敵」を打ち負かすために使う「道具」のことでしかない。
しかも憲法学者は、ルールのあり方それ自体について、定言命題を発出する。相手を打ち負かすために都合の良い駒の動かし方のルールまで、操作対象にするわけである。
たとえば学会では自衛隊違憲論を認めながら、首相が自衛隊合憲明文化を打ち出すと、「そんなことは今さら必要ない」と言い放つ。個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲なので、首相は「反知性主義者」だ、と言う。このような操作は、「抵抗の憲法学」においては、全面的に肯定される。「政府を制限することが立憲主義だ」、という権力関係に関するルールが、メタレベルの高次のルールと信じられているからだ。
木村教授によれば、「日本は第一共和政時代にある」という。戦前の天皇制の廃止がフランス革命による王政の廃止にあたり、ナポレオンが台頭するのが現代の日本なのだという。そこで現代日本では、共和派=護憲派が、残存する王政復古派=改憲派に「抵抗」し、戦い続けている、という壮大な歴史物語のフィクションが、大真面目に主張されることになる(木村草太『憲法という希望』第四章)。木村教授は、ほとんど宗教じみた様子で、この神話を伝道する。
それにしても、ほんとうに、憲法解釈とは、決まりきったお馴染みの相手を、さらにいっそう有効な手段で打ち負かすための「道具」なのだろうか。
それにしても、ほんとうに、憲法解釈とは、権力者に対する抵抗の手段として神話まで「使いこなす」半ば宗教的な道具的操作のことなのだろうか。
それにしても、ほんとうに、憲法解釈とは、特定のメディアの反政府キャンペーンにお墨付きを与えるための権威がありそうな道具箱の提供のことなのだろうか。
実は、社会が憲法学に期待するのは、そのようなことではなく、もっと客観的かつ公平・中立な視点から、様々な社会的利益の調整を求めたりするための地道な憲法解釈の追求ではないだろうか。
「抵抗の憲法学」にとって、憲法=将棋とは、憲法学者=「友」が、権力者=「敵」に、「抵抗」を仕掛けるための「道具」にすぎない。「抵抗の憲法学」は、自分を抑圧した中学校の先生に「抵抗」するように、政府=「王政復古派」に「抵抗」することを呼びかける。そのために敵の「急所」を突く「将棋」としての立憲主義を伝道する。
非常に特異なガラパゴス憲法観=将棋観だと言わざるを得ない。
編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2017年7月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。