国民ファーストと日本ファーストは正反対 ‼︎

「日本ファーストの会」が結成され、その名称について多くの意見が出されています。
私は、結成した若狭氏の意向はともかく、「日本ファースト」と「国民ファースト」は正反対の概念だと考えています。

日本の武家社会において、藩士たちにとって「お家」は最上位の存在でした。赤穂浪士の仇討ち劇も、赤穂藩の「お家断絶」がなければ実現しなかった話です。

また、戦前までの「家制度」は個々の「家」が最上位の価値を持ち、家長が家族の権限のかなりの部分の掌握していました。妻は独自の財産を持てず、家長の承諾がなければ家人は結婚等もできなかったと記憶しています。

このように、個々の構成員よりも、「家」という「組織」の方がはるかに重視されてきた歴史が日本にはあります。

最も悲劇的だったのは、終戦前の民間人への扱いです。
東京大空襲の時には、水をかけても何の効果もないナパーム弾発火のバケツリレーでの消化が義務付けられていました。その規則に従った国民のほとんどは焼死したはずです。
更にひどいのは、ソ連が満州に侵略してきた時、軍人が民間人を縦にしてサッサと逃げてしまったことです。

ナチス政権のドイツでさえ、終戦間際に民間人を救助するために大々的な行動が行われたそうです。国家よりも個々の国民の価値が上位だという観念があったのでしょう。

満州で民間人を縦にした軍人たちの多くは、「これからの戦争を考えると、日本のために軍人が必要だ。今、民間人に犠牲になってもらうのは日本のために止むを得ない」と思って、やむを得ず民間人を犠牲にしたものと私は信じています。

つまり、日本という「組織」を守るために、個々の構成員である国民(民間人も軍人たちも)は、迷うことなく命を捧げて犠牲にならざるを得なかったのでしょう。

その風土は戦後も残り、個々の従業員よりも会社という「組織」を守ることが第一とされてきました。「会社のために死んでくれ」と言われて自殺させられた社員も少なからずいたそうです。今でも、「会社のため」に法律違反をする人たちが後を絶ちません。

このように、個々の構成員である国民や社員よりも、国や会社という「組織」に高い価値が置かれ、国や会社のために個々の構成員が犠牲になってきたのが日本社会なのです。

ですから、構成員である個々の国民と「組織」である日本と、どちらを優先するかは極めて(本当に極めて)重要な問題なのです。「組織」をファーストと位置づければ、個々の構成員は「組織」のために犠牲にならなければなりません。

そうではなく「国民」がファーストであれば、「組織」である日本が国民のために犠牲にならなければなりません。

国家の枠組みである日本国憲法の最大の価値が「個人の尊厳」である以上、現行法の理念は「国民ファースト」であって、間違っても「日本ファースト」ではありません。

終戦記念日も近くなりました。今一度、日本という「組織」のために犠牲になった人たちに思いを馳せてみませんか?

荘司 雅彦
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2017-06-22

編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年8月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。