「国敗れてもその余殃を受けず、国独立してもその余慶なく、部落(むら)は国の盛衰、和乱を通じて生き永らえて来、左右の内閣の下でも生きのびている。ソ連でも中国でも幾度か飢饉が起こっているが,これは部落を権力で直接につぶそうとした企てと無関係でないように見える」
日本ばかりではく世界のむら社会に対し、こんなドキッとする言葉を見つけたのは、社会学者・きだみのる(本名・山田吉彦、1894-1975)の著書『にっぽん部落』(1967、岩波新書)の中だ。フランス留学後、東京多摩(恩方村)の農村に住んだ経験をもとに書いたもので、ちょうど半世紀前になる。きだみのるはファーブル『昆虫記』の訳者でもある。
きだみのるの言う部落(むら)は、自然に集まった十数軒からなる地域集団で、独自の掟があり、みなから認められた世話役がいて、それぞれが田畑に頼って暮らしている。彼の言葉を借りれば、
「旅行やピクニックのとき読者が海岸や畑の間,山陰や丘の中段などにいくらも散在している民家の集まりのことで、もっと注意深い眼ならその傍に産土社を神木の陰に見つけるのが普通だ」
といった場だ。彼は廃寺に移り住み、根源的、原初的な集団の中で特異な経験を重ねる。子どもが熱を出して、近所に卵を分けてもらいに行ったら、「卵はザルごと持って行きな。銭はいらねえよ」と、涙がこぼれるぐらいの人情を感じる。ところが、自分が食べると言うと、最高の闇値を要求してくる。強欲と言われようが、とことん自分の稼ぎを優先する、もう一つの不文律がある。
戦後、「むら社会」は地主制を支える封建思想の象徴としてマイナスイメージを帯びた。無縁社会に住む、いわゆる進歩的な文化人からは、オルグを通じて連帯し、救済しなければならない対象とみなされた。だが、むら社会の中にいた筆者は、村人たちが都市から来る人たちを遠巻きに眺め、「何処の馬の骨とも解らねえそんな余所者のいうことをいちいち聞いちぁあいられねえだよ」と話すのを聞く。用があるなら、村の親方や世話役を通して話をするのが掟なのだ。
現場を知らず、一方的な正義や理想を振りかざしても、言葉には命が宿らない。村人には生活こそ第一で、野心を抱かず、「住民たちは生まれ、育ち、働き、しがない暮らしを立て生殖し、子孫を残し、安楽に死ぬことしか求めていない」。共有する山の資源は均等に、公平に分配され、冠婚葬祭の義理も等しく清算される。殺傷するな、盗むな、放火するな、恥を警察に知らすな、の4つの掟がすべてであり、国の法律はこれに及ばない。この点、村の世話役は、税務署の差し押さえ、警察沙汰の際に仲裁を引き受け、婚姻の仲立ちもすることで、指導者として認知される。こうして築かれた有縁社会なのだ。
村の掟、村人の行動様式を観察し、きだみのるはむら社会に対するステレオタイプの見方を改める。メディアが設定する対談などで、奇想天外な発言をし、都会の文化人をあっと言わせる。
「言語に敬語がなく、また女性語もない。住民の並列的平等、困ったときのお互いさま、薪分けのときの鋭い公正感覚。部落は元々民主的に組織されたところで位階もなければ勲章もなく、あるのは資産の差で、これは勤労と倹約の積み重ねの結果である」
前近代的と思われているむら社会にこそ、有縁を通じた民主的な土壌があるとする逆転の視点に注目したい。和を重んじるルールの中では、多数決は忌避され、自発的な服従や自己制限を通じた協調が優先される。それによって被る損害もまた別の機会に清算され、どこまでも平等が追求される。一方、都会の無縁社会を覆うのは抽象的な法であり、いわゆる文化人はその上に胡坐をかいて、正義や平等を語る。
村人が戦後の物資窮乏期、違法などぶろくを飲んでいたとき、きだみのるは「同じ頃、ぼくは社会の木鐸だったり大衆の友だったりする新聞記者が特権階級であることを知った。首相官邸詰めの記者たちはこの危機において酒にも煙草にも不自由しなかったのだから」と書いた。半世紀がたった。かれの言葉はそのまま今日にも通用するのではないか。
生活者の視点を欠き、借り物の制度や法を持ち込んだところに民主主義は根付かないのではないか、と自問を迫られる。むら社会を完全に否定したことによって、土地に根差した民主主義は流出し、その結果生まれたのは、民主社会の主人公であるべき生活者を分断させる無縁社会だった。日本と中国に共通した課題であるように思える。
(続)
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。