100年生きる“生存バイアス”?

先般、古くからの友人と飲みに行き、たまたま店にいた友人の知人と話をする機会がありました。双方ともすでにお酒が回っていたので、議論というより主張のぶつけ合いになってしまいました。

相手は確か40代後半で「自分は100歳まで生きる」と言い張り、私は「平均余命を考えれば、それは不可能に近い」という不毛な攻防戦の末、呆れた友人にたしなめられて反省した次第です。

よくよく事情を聴くと、相手には介護をしなければならない親がいるので「死ねない」とのこと。心情を推し量ることができなかった自分自身が情けなくなりました。

話が飛躍するようですが、もしあなたの家族やパートナーが6ヶ月の余命宣告を受けたとしましょう。とりわけ幼い子供が余命宣告などを受けたら、普通の親であれば気も狂わんばかりになることでしょう。

気持ちの整理がつくと、「あと6ヶ月をどのように過ごさせてあげればいいのだろう?」と考えるようになるかもしれません。思い残すことがないよう、無理のない範囲で相手にとって最高のスケジュールを組むかもしれません。

しかし、「6ヶ月の余命宣告を受けた人間」が、6ヶ月後に死ぬとは限らないのです。
もしかしたら、明日、乗っていた車がトラックに追突されて死亡するかもしれないのです。
私たちは、とかく余命宣告を受けた人は、期間満了まで生きるものと無意識的に思ってしまいます。

それと同じで、「介護をしなければならない親」「幼い子供」がいて先に死ぬことができない事情のある人は、「死ねない」という強い感情が「死なない」という”生存バイアス”に変化してしまうことがしばしばあります。

両親が健在の人たちは、「自分が死ぬのは親の後」という意識があるため、自分の死ははるか先のものと錯覚してしまいがちです。これも一種の”生存バイアス”と呼べるかもしれません。

もちろん、「長生きしたい」という気持ちは素晴らしいものだし、本当に100歳まで生きる可能性もあります。そのような気持ちに水を差すのは無粋でありましょう。

とはいえ、人間の人生の終わりは神のみぞ知るわけで、老若男女を問わず、明日、一週間後、一年後に生きているという保証はどこにもないのです。”生存バイアス”に支配されることなく、「その日その日を大切に楽しく生きて、何歳まで生きるかはその結果」と考えておいたほうが、悔いのない人生を歩めるものと私は思っています。

交通事故に遭って瀕死の状態の中で「ああ、机の中のアダルトDVDを処分しておくんだった」と考えても…遅いのであります(^^;)

荘司 雅彦
講談社
2006-08-08
今から威力を発揮する「歴史CD」付きです。

編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年11月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。